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No.7
宇佐山からの眺望
下坂 守
JRの湖西線を利用し琵琶湖岸を通るとき、車窓からいつも仰ぎ見る山がある。 比叡山系の折り重なる山並みのなか、西大津駅と唐崎駅の間に位置する宇佐山 (標高334.8メートル) である。 その山容は、山頂に立てられたNHKのテレビ塔によって、わりあい簡単に見分けられる。
私がこの宇佐山山頂の城跡を訪れたのは、もう20年以上も前のことであろうか。城跡の調査報告書を片手に狭い郭や石垣を求めて、山頂をあちこちと歩き回った日のことがいまも昨日のことのように思い出される。とはいっても記憶にあるのはやたらに青かった空ぐらいで、どうも調査というよりも、ハイキング気分のほうが強かったようである。それでも今なお、事あるごとにこの山のことを思い出すのは、その山頂からのはるかな眺望にある。
この大津から遠く守山あたりにまでを及ぶ同じ眺望を、かつて3か月もの長きにわたって見続けることを余儀なくされた一人の武将がいた。織田信長である。
折から大坂出陣中の信長のすきをついて、敵対する浅井長政・朝倉義景の軍勢が、宇佐山城に責めかかったのは、元亀元年(1570)9月のことであった。城から打って出た信長配下の城主森可成(蘭丸の父)を倒し、勢いに乗った浅井・朝倉勢は京都へと向かう。しかし、おっとり刀で大坂から信長が駆け付けるや事態は一転、浅井・朝倉勢はあっさりと近江に退却し、そして信長もまた誘い込まれるように近江へと軍を進める。
やがて浅井・朝倉勢は信長の手のとどかない延暦寺内の壺笠山・青山に、また信長は宇佐山城に入り、ここに三か月に及ぶ両軍の対時が始まる。壺笠山・青山はいずれも宇佐山の背後にそびえる山であり、宇佐山の信長は、敵の眼下に陣を取ったことになる。信長の劣勢は誰の目にもあきらかであった。
彼が宇佐山でいかに焦燥の日々を送っていたかをよく物語る出来事がある。信長を支援するために羽柴秀吉らが軍勢を率いて湖東から駆け付けた時のことである。湖岸を遠くこちらに向かってくる軍勢を眼下に見つけた信長は、これを敵軍と勘違いし大いに慌てたという (『信長公記』)。かの傲慢をもって知られた信長において、この有様であった。宇佐山からの眺望のよさも、彼にとっては苦痛以外の何者でもなかったのである。
元亀元年12月半ば、浅井・朝倉は雪の季節の到来を前に帰国をあせり、ようやく信長は窮地を脱する。ちなみにこの時の苦い経験を鑑みて信長が比叡山を焼き討ちしたのは、翌年の9月のことであった。
宇佐山山頂からの眺望と、信長の焦燥の日々、それは歴史の現場を訪れる楽しさとともに、私のなかでいまも一つに結び付いている。
[No.107 京都国立博物館だより7・8・9月号(1995年7月1日発行)より]