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No.12

伊東 史朗

 考古学少年だった小学校低学年のぼくには、田の畔でひろった土器の小破片が何ものにも替え難く、古代人と直接会話を交したような昂奮を覚えたものだった。中学生になってからは、エジプトやオリエントにも興味が移り、 その方面の一般書をよく読んだ。平凡社版世界名作全集に収められた、ワルタリの 『エジプト人』 に熱中したのは、映画化の影響があったとはいえ、小説の真の意味よりも、古代趣味に酔うことができたからである。このようにムード先行の興味だったため、大学で考古学を専攻してからの、現実とのギャップは大きかった。無味乾燥とぼくには思えた膨大なデータ、それに複雑な人間関係。ぼくは半年でここを辞めた。

 在籍中、発掘に3度参加した。縄文住居址と古墳とである。古墳の石室中に被葬者の頭髪と歯が残っていて、近くの寺で供養をしたが、奇妙といえば奇妙な風景である。 そういえば、この時の発掘日誌に記されたぼくの名を、後年、 八賀晋氏 (もと当館考古室長) が見つけて、転向したぼくをさかんにひやかすのだった。

 考古学に代わる専攻を探さなければならなくなり、強い希望はなかったのだが、わりとスンナリ美術史と決めたのは、美術が好きというよりは、仏像をおもしろく思ったからであろう。毛利久先生の鎌倉時代彫刻史の啓蒙的な本が、データ主義に陥らないこの学問を魅力的に感じさせたこともあったが、その年の夏に訪れた、伊豆・願成就院の運慶作の仏像に強く惹かれたことが大きかったように思う。当時は久野健先生による、一連の運慶作品の発見・確認の作業が一段落した頃である。従来否定されていたことを、丹念な調査により覆えす先生の方法に、快哉のエールを送ったものだった。そこで感じたことだが、美術史の研究は、その作品を美しいと感じ、つまり俗なことばで言えば惚れこみ、そのすべてを知りたいと願うことから出発する。反論があるかも知れないし、独断を承知で言えば、ここが考古学などほかの学問と、大きく異なる点だと思う。すなわち、科学的な操作よりも感覚を、組織的な調査よりも個人の直感を、である。

 最初に出会ったのが運慶なのも、ぼくにとっては良かった。これが定朝や快慶だったら、新米のこの若造は、またもや迷路の中で途方に暮れなければならなかっただろう。運慶は仏師である前に彫刻家である。礼拝の対象である仏像が、何よりもまず一個の彫刻であることを教えてくれた。彫刻史の研究にとって、彼の作品はこよなき慰めと指針である。

 とはいえ、考古学に対する未練は、いまだにある。インディ・ジョーンズほど派手でなくとも、日常生活のレベルで古代人を垣間見ることは、美術とは別の次元で想像力をかきたてる。出土品を通して、古代人の息吹きまで実感できたなら、美術作品に対しても彼らと同じ眼をもって (つまり近代的な鑑賞方法を排して)、美しいと感じることができるだろうか。ぼくの夢である。

[No.112 京都国立博物館だより10・11・12月号(1996年10月1日発行)より]

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