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No.15

蒔絵学事始

灰野 昭郎

 「江戸の職人の間で一番誇りとした仕事は、金蒔絵師の仕事であった。 (略) ところが維新以来、もはやこういった高価な品の注文はなくなり、この職業はすっかり衰退してしまった。事実、 数年前には、この仕事で収入の多い生活をもくろんでいた者が、今では人力車をひいているほどだ。」 (『ヤング・ジャパン』東洋文庫)。 明治13年、 横浜で発行された英字新聞の記事である。多少の誇張はあるにしろ、明治初年の蒔絵界をよく描いている。 と思う。

 これより先、 明治新政府は古器物 (文化財) の散逸を惜しみ、 31部門について所蔵者、品目などを官庁に届けさせている。明治4年の事だ。これは明治政府の大目標の一つであった「殖産興業」 がその基礎にあった。 さらに明治5年、ウィーン万国博覧会出陳の品々を山下門外の博物館 (東博の前身) に陳列して、天皇・皇后の天覧に供し、一般人にも九日間縦覧を許した。そして、 まがりなりにも、明治6年のウィーン万博は成功した。

 次の目的は明治11年開催の第2回パリ万博であった。日本の工芸の歴史を国内に知らしめ、その良さを工人等に自覚させる意のもとに、この年 『工芸志料』上下2冊が博物局の名で出版された。著者は黒川眞 (1829−1906)。その序は言う。「工芸を勧め励まして国の用に利し、貨財を殖やすは、国を治める者の宜しく尤も急とすべき所なり。而して博覧会は人の知識を開き、工芸を盛んにする所以 ゆえん の事なり。欧州各国の称して文明となす者は、蓋けだしこの道に因いて弘む」 (原典漢文)。黒川眞は元来国語音韻、 国学の研究者。 国史の文献を読破して、『工芸志料』を書き上げた。快挙である。いわば即席の工芸史。その巻七に「漆工」があり「蒔画」の項がある。我が国初の蒔絵研究といえる。黒川はその後、正倉院御物の整理、御歌掛寄人、『古事類苑』編纂委員、東京美術学校教諭、全国宝物取調掛、東京音楽学校教授、帝国大学教授、帝国博物館鑑査委員と進む。そして、明治23年『国華』8号に「蒔絵説」を書く。これは元禄7年 (1694) 編集の『萬寳全書』の「蒔絵時代物之目録」を元にしている。「蒔絵ハ本邦ノ創意ニシテ支那三韓ノ法ヲ傳ヘシニハ非ラズ」と断言している。この説には賛成する。だが、室町時代に我が国の蒔絵の技術は中国に流出、彼の地で泥金画漆というのは我が国の高蒔絵。描金は平蒔絵。 縹霞彩漆は研出蒔絵だという。さすが、この説はその後、完全に無視されている。さらに蒔絵を「蒔画」「描金」とした造語にも賛同できない。しかし、明治の文明開化はこの造語を好んで用いたし、『工芸志料』は漆工のバイブルであり続けた。

 「漆工史に関する限り諸家の引用する文献はよく『工芸志料』 から出て居るが (略) 誤謬と誤釈とは至る処に充満し、出典を示さぬ者も大半を占めそのまま借用するときは、単に学者自身の面目を損するのみでなく、無意識の間に世人を誤る罪が甚深い」(『漆と工芸』 376)。 昭和7年の吉野富雄 (1885−1961)の言である。蒔絵学事始である。

[No.115 京都国立博物館だより7・8・9月号(1997年7月1日発行)より]

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