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No.20
モノと年代観
尾野 善裕
このところ、モノの年代観にこだわっている。博物館の陳列でも、時代や世紀の表示をしているが、題箋(ラベル)をつくる時に、いつも「これでいいのかなあ」と自問自答している。多くのモノがそうだが、それ自体に造られた年号が書いてあることはむしろ珍しいのであって、たいていの場合、年代が判っているものとの比較から、それが造られた時代を推定しているのが現実である。ただ、厳密に全く同じものは世の中に存在しないから、時代判定の基礎は詰まるところ、似ているかどうかというと類似性の問題でしかない。しかし、なぜ似ていたら同じ時代だと言えるのか? 私が不勉強なせいかもしれないが、この根本的な疑問についての説明が書いてある概論書には、ついぞお目にかかったことがない。確かに、世の中には風潮とか流行といったものがあり、同じ時代には似たようなモノが多いということには、理屈で理解する前に感性のレベルで納得してしまう側面もあるのだが、だからといって似ているから同じ時代、違うから時期がズレると言うのは論理のすり替えでしかない。ある程度のバラツキは、同じ時代のモノの中にも必ず存在しているの筈なのだ。
こんなことを言っていると、「そんな細かいことを気にしてたってしょうがない」とか「もっと全体を考えたら」とよく言われるが、個別には些細な問題ではあっても、基礎部分をないがしろにして、その上にどれだけ積み上げをしてみたところで、それは砂上の楼閣でしかない。個別のモノゴトの前後関係を誤って認識したままで、全体を論ずるのはナンセンスだろう。
確かに、世の中が均質であって、一方向的に変化していくことを前提にしていた方が、正しいかどうかは別として、モノとモノの時間的前後関係を決めるのには都合がいい。しかし、改めて考えてみるまでもなく、世の中の実体は非常に不均質なものなのだ。卑俗な言い回しだが、金持ちも貧乏人も世界中皆同じに変わっていく…、なんていうのはあまりにも嘘臭い。
話はとぶが、私の実家には小学校5年生まで白黒テレビしかなかった。友人宅でカラーテレビを見せてもらった時に、あるものの色彩が私が想像していたのとは全然違うことを知って、驚いたことがある…と書くと、私のことを相当年配者と思われる方が多いだろうが、一応まだ30代前半である。 かくのごとく不均質であることを前提としても、大勢として世の中が変化しているならば、問題は同時期のモノの存在のバラツキの幅をどう押さえるかにかかってくる。しかし、これが難しい。<場>から切り離されてしまったモノとモノの同時期性は、類似性によってしか語れないのだが、しつこく述べてきたように、非類似性イコール非同時期性と言えない以上、類似性だけを手掛かりにバラツキの幅を押さえることは無理だからである。
しかたないので、ここで思考を停止して、「まあ、いいや」と題箋に時代・年代を書き込むことになる。
[No.120 京都国立博物館だより10・11・12月号(1998年10月1日発行)より]