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No.21

黒澤明追悼

狩野 博幸

 小林信彦が『週刊文春』である程度のことを書いていたので、僕も黒澤明について少しばかり書いておきたいと思う。

 どのように考えても「どですかでん」以後の黒澤は"余生"だった。黒澤の映画では役者のセリフが聞きとりにくいのだが、音響の良くなった「影武者」でも同じだったのは、どこかもの哀しさを感じた。「市民ケーン」をはるかに凌ぐ世界最高の映画「七人の侍」では、志村喬の「勝負は、この一撃で決まる!」のセリフがちゃんと聞えれば、あとは宮口精二の動きや豪雨の中の泥濘を見ていればよかった。だが、「まあだだよ」はどこを見ていればいいのだろうか。内田百Jが所ジョージのような××な弟子の振舞いに感涙を催したりするものか。 そのうそ寒さは天下の奇景といってよかった。黒澤追悼番組でホントのことをいったのは、確かに千秋実だけだったのは明白だ。

 黒澤が黒澤でなくなったのは、ひとりで脚本を書き始めて以後のことと断言しよう。黒澤映画の語り口の面白さは、共同脚本によって生まれたものだったといえる。たとえ、ユル・ブリンナーが「『荒野の七人』は、私がいなければ取るに足りない作品になっただろう」といっても(『ハリウッド噂の真相』),「七人の侍」の脚本がなければ、ユルも「取るに足りない」役者であるしかなかったのは間違いない。志村喬の演技あったればこそ、大根は大根のままでも存在感を示しえたのである。違いますゥ?

 もう有名な話なので書くことも気が引けるが、「スター・ウォーズ」のC3POとR2D2が「隠し砦の三悪人」の藤原釜足(でもスゴイね、 この芸名)と千秋実だったのは、世界中の「スター・ウォーズ」フリークが知っております。あの「夢」でパロディができるだろうか。「こんな夢を見た」っても、ハイハイどんな夢でもご覧なさいというのが、映画に大枚はたいた人間のほとんどが感じた思いじゃないだろうか。もっと言おうか。黒澤は、「どですかでん」以降、自分を見失ったのだと思う。「用心棒」や「椿三十郎」を"身すぎ世すぎ"と思ってしまったところに、かれの弱さがモロに出ている。政治が三文役者ばかりでシッチャカメッチャカになっている今こそ、伊藤雄之助の城代家老をキイ・パーソンにした面白い時代活劇を制るべきだったのだ

 製鉄は火を消したら再生するのは凄い時間が必要だが、それでも再生は可能である。しかし、"文化"というものは、一度消してしまえばもう一度火をつけるのは無理というよりは、無意味である。消してしまえば、それで終りだ。

 知っている人は知っていようが、展覧会などというものが博物館や美術館と同じく、明治以後のものでないことは確かである。それはハコのことであって、展覧や鑑賞ということはまったく別のこと。そのことを深く考えて、表面でチャラチャラしている輩の喉元にあいくちを突きつける城代家老こそ、少くとも僕が求めている人間だ。

 人間はどうしようもなく人間だ、というのが小津や溝口だったとすれば、何とか出来るはずだ、というのが黒澤の映画だったのではないか。「天国と地獄」で佐藤忠男のような人間から批判されようと、悪人はただでは生かしておかねえ、というのが黒澤の映画だったじゃないか。左翼とか右翼などという決まり文句じゃなく、「お前ら許せねえ、叩つ斬る!」という映画こそ、黒澤の面白さだったはずだ。

 「どですかでん」以前の黒澤こそ、今や訳のわからない独立行政法人化を無理押しされている我々には、重大なヒントになるはずだと思う。「お前ら許せねえ、叩つ斬る!」

[No.121 京都国立博物館だより1・2・3月号(1999年1月1日発行)より]

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