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No.22

中部ベトナムに日本鏡を探して

久保 智康

 中部ベトナムの11月は雨がちと聞いていたが、ことに昨年は台風が次々と通過してひどい雨降りだった。ホーチミン(旧サイゴン)からダナンへ向う国内線は予約便がキャンセルとなり、半日待ってようやく機上の人となった。眼下に見えてきた平野はいたるところ水没し、道路もあちこち途切れている。前途が思いやられた。

 400年ほど前、数多くの日本人が海からこの地に入り、ダナンとホイアン(当時はツーラン、フェフォと呼ばれた)に町をつくった。室町〜江戸初期の朱印船貿易、そして鎖国後はオランダ東インド会社や中国のジャンク船が行き交う南シナ海交易路で日本とつながっていたのである。そのベトナムに、日本からもたらされた銅鏡があるという'風の噂'を確かめること、これが今回の旅の目的だった。

 ダナンはそれなりに都会で、フランス植民地時代の面影こそ残すが、日本人町の名残など望むべくもない。それでも郊外の五行山に登ると、ダナンからホイアンの方へまっすぐのびる海岸線の先に当時交易船が標識とした島が遠望され、とうとう交趾(日本・中国でこの地をこう書いた)へやってきたと、めずらしく感慨にひたったものだ。鏡探しの方は、まずダナン省博物館をたずね館長や研究員に話しを聞いたが、それらしいものは蔵品になかった。

 一方のホイアンは、近世の町並みが政府により保存され、今まで見たどこの古い町並みとも違う独特のエキゾチズムが漂う。日本人が作ったと伝える来遠橋や、近くには日本人墓もいくつか残っていて、銅鏡発見の期待はいやがうえにも高まる。気温30度。汗だくで目抜き通りのチャンフーを歩く。歴史博物館や来遠橋近くの考古博物館はいずれもカラ振り。鏡どころか日本っぽい遺品はほとんどない。ただ昭和女子大学が調査した発掘品を展示する貿易陶磁博物館には、伊万里など日本の陶磁器が他地域の品に混じりしっかりと存在しており、交易の様を雄弁に語っていた。やはり焼物は強い・・。

 地元の博物館がだめとなると、次なる手は骨董屋回りである。しかし政府が骨董品の国外持ち出しを禁止しているせいか、はたまた植民地時代にすでに流出してしまったのか、ベトナムの骨董屋には本当に古い良いものが少ない。日本鏡はホイアン一番の目利きの店にもなく、主人にダナンの知人の店を紹介された。結局ホイアンは収穫ゼロ。すでに川は水があふれつつあったが、帰国して2週間後、チャンフー通りや来遠橋が水没し、近郊で死者も出たと新聞記事で知り、町を歩けただけでも幸運だったとあとで思い直した。

 翌日ダナンに戻り、くだんの骨董店に直行した。女主人いわく、1面あったがだいぶ前に売れたとのこと。体の力が抜けたが、彼女がさらに別の店に電話すると、すぐにそこの主人がバイクで柄鏡を片手に駆けつけてきた。雨に濡れたそれは日本の江戸初期のもの。「天下一」と銘もある。漆喰のような硬い白土と青錆におおわれ、間違いなく地元出土のようだ。やっとめぐり合えた!さっそく写真と図をとらせてもらったのは言うまでもない。

 このような鏡は、ハノイとホーチミンの歴史博物館にも数面ずつ収蔵されることが今回確認できた。それらを見ると、日本から持ち込まれた鏡だけでなく、柄を折ったりベトナムで踏み返して鋳造した円い懸鏡が目立つ。どうも当地固有の鏡使用法があったようで、ということは、日本人だけでなくベトナムの人々も日本出自の鏡を用いていたと考えてよさそうである。

 300〜400年前の日本とベトナムの交流を自分なりに確認でき、最終日ホーチミンを歩く足は軽かった。日本人の末裔がそのへんにいて、ふと昔の日本語で話しかけてくるのではないかと空想したりもした。

[No.122 京都国立博物館だより4・5・6月号(1999年4月1日発行)より]

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