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No.30

あなたは誰ですか?

淺湫 毅

 ここに一躯の肖像彫刻がある。剃髪し、袈裟を身にまとって合掌することから、僧侶の肖像であることは間違いない。正面を見すえるま なざし、堅く結ばれた口元。意志の強そうな人物である。額の数条のしわ、 眼の下のたるみ、ややこけた頬の起伏。年齢は五十代後半から六十代前半くらいだろうか。

 この像は京都市左京区の迎称寺に伝来したもので、現在京都国立博物館でおあずかりしている。迎称寺は時宗遊行派の一条道場として開かれ、創建当初の一条堀川から数度の 移転をへて現在へといたっている。同寺では、開基の一鎮上人像と伝え、ながらくそれが疑われること はなかった。ところが、東山の長楽寺に呑海上人として伝来していた像が、実は一鎮上人であったことがわ かり、それとは容貌の異なる迎称寺像がいったい誰なのか、現在のところ謎となっている。今にも語りだしそ うなほどの迫真性に、おもわず話しかけたくなる…、あなたは誰ですか?
 謎があれば解き明かしたくなるのが学芸員のサガというもの。ホームズばり(体型はワトソン君だが)の推理をひとつといきたいところである。さて、こ こで手がかりとなるのが一鎮上人像をはじめとする長楽寺の時宗祖師像で、明治四〇年に長楽寺が七条道場金光寺を合 併した際に移されたものである。いずれも運慶の末裔を称する七条仏所によって製作されているのだが、これらをみて気付くのは、追慕像を除くと各上人の遊行在位中に、仏所を主宰する仏師によって製作されているということである。したがって、迎称寺像も像主の遊行在位中に、七条仏所の主宰者たる仏師が製作にあたったと考えてよいのではないか。また迎称寺像は、建武元年(一三三四)に仏師康俊(幸俊)によって製作された長楽寺の一鎮上人像にもおとらない作風をみせることから、同像とあい前後するころの製作と考えられ、像主としては、遊行四代呑海、五代安国、七代託何が候補となる。このなかで宮城の真福寺に伝わる安国上人像は、容貌がまた異なるので安国は候補からはずれる。したがって、迎称寺像は呑海か託何のいずれ、ということになろう。

 この問題に関して託何像の可能性が高いとする見解が昨年出された。ところが上記の前提に立って考えると、もし託何像であるならば、託何が遊行の位にあった 暦応元年(一三三八)から文和三年(一三五四)のあいだに製作されたこととなる。これはちょうど康俊の活 躍期で、その製作には康俊があたったはずだが、迎称寺像と康俊作の長楽寺一鎮像は立体の把握や衣紋表 現が大きく異なり、別の仏師の手になることは明らかである。したがって迎称寺像が託何であるとは 考え難いのではないか。

 以上のように、消去法で呑海像である可能性が浮上してくる。呑海上人は元応元年(一三一九)に遊行を継ぎ、正中二年(一三二五)には退いている。このあいだに康俊よりも一代前の仏師によって、呑海上人の肖像として製作されたのが迎称寺像、というのが京博のワトソン君の推理である。詳しくは近日当館より発行される『学叢』第二三号をどうぞ。なお、当像は秋に展示を予定している。

[No.130 京都国立博物館だより4・5・6月号(2001年4月1日発行)より]

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