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No.34

広瀬武夫と坂本龍馬

宮川 禎一

 「広瀬武夫を知っていますか?」という質問を誰彼なくお尋ねしてきたのであるが、ある年齢以上の方だけが良くご存知で、それ以下の方は全くご存知ではない。この平和憲法下の日本で軍神広瀬などとは誤解を呼ぶ元なのは承知のうえで記してみたいと思う。

 広瀬武夫は明治元年5月27日、 豊後岡藩士の次男に生まれ、明治10年には父親の任地である飛騨高山に移り住んだ。明治 18年に築地の海軍兵学校へ入学。ロシア駐在武官などを経て、日露戦争には戦艦朝日の水雷長として出征。明治37年3月27日、旅順港閉塞作戦中に敵砲弾の直撃を受けて戦死した。享年36歳。海軍士官として歩んだ彼の人生の一端は司馬遼太郎の『坂の上の雲』にも登場する。柔道と漢詩を好み、ロシア人とも親交をもった彼の生き方は明治という時代ならではの清々しさを備えている。

 広瀬の生まれた岡藩7万石は大分県南部の山間にあり代々中川氏が藩主であった(ちなみに前博物館長の中川久定先生の家)。滝廉太郎の「荒城の月」のモデルともなった竹田市の岡城址はおそろしいまでに峻険である。竹田・高山と山国育ちの広瀬がなにゆえに海軍なのか?その鍵はじつは坂本龍馬にあるのではないかというのが本題である。

 京都国立博物館 が保管している国指定重要文化財の坂本龍馬関係資料のうち「有魂姓名録」の冒頭に勤王の志士らの名簿がある(龍馬 の直筆ではない)。そのなかに中川修理太夫家中の「広瀬友之允」の名が載っているのだが、ある時この人物が広瀬武 夫の父広瀬重武であることがわかって大変驚いた。重武は天保7年生まれなので龍馬よりひとつ下、ほぼ同世代といえる。文久2年に脱藩したのも龍馬と共通する。

 ここからは歴史小説のジャンルにはいるが、文久3年頃、神戸海 軍塾の創設に走り回っていた坂本龍馬が広瀬重武を含む岡藩の志士らにこれからの日本のために海軍を起こすこと が急務であることを力説したことがあったのではなかろうか。それに感化された広瀬重武は山育ちの息子を明治 海軍に入れることになったのではと想像してみたのである。龍馬が暗殺されたのは慶応3年、武夫が生まれたのは翌明治元年。広瀬武夫はあるいは龍馬の精神的遺伝子を受け継いだ息子なのではないだろうか。そうすると広瀬が旅順港で戦死する運命もまた坂本龍馬が与えたものではないか。これを証明する資料は 武夫の書簡類を納めた全集には残念ながら出てこない。竹田市の広瀬神社に残る父重武から武夫へあてた手紙に龍馬の名前が出てくるのではないかと私は憶測しているのである。

 日露戦争からもうすぐ100年が経とうとしている。軍神広瀬中佐として喧伝された昭和20年までと、まったく取り上げられなくなった戦後。同一人物への評価がこれほどまでに異なるのも時代の価値観のなせるわざであろう。 しかしそれを超えてなお輝く人間的魅力を広瀬武夫はもっている。

[No.134 京都国立博物館だより4・5・6月号(2002年4月1日発行)より]

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