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No.33
雪舟体験
山本 英男
「室町時代の水墨画家の名前をひとり挙げてください」といわれて、まず最初に出てくるのはたぶん雪舟だろう。これ以外に挙がるとすれば、狩野元信あたりだろうか。曾我蛇足だの相阿弥だのとなると、ほとんどマニアの領域であって、知る人はあまりいないだろう。
雪舟の名前が人口に膾炙しているのにはわけがある。例の「涙でネズミを描いた」という話が学校の教科書などに収載されていたからだ。お寺の小坊主であった雪舟は修行もせず、毎日、絵ばかり描いていた。それに手を焼いた和尚はある朝、雪舟を本堂の柱にくくりつけたのだが、かわいそうに思って様子を見に行ったところ、雪舟の足下で大きなネズミが動いた。実はそのネズミは雪舟が流した涙を足の親指につけ描いたものだった、という内容だ。これが真実であったかどうかは別としても、大画家の少年時代を飾るにふさわしい話であるということはできるだろう。
この話の舞台は、岡山県の総社市にある宝福寺という東福寺派の禅宗寺院。私も子供会の遠足でそこを訪れたことがある。というのも私の出身は同じ岡山の倉敷市なので、総社市は目と鼻の先だったからだ。30数年前、確か10歳くらいのことだったと思う。お寺の境内をざっと拝観した後、案内されたのが本堂だった。案内係のひとが向こうの柱を指さし、「あれが雪舟さんがくくりつけられていた柱です」といったものだから、私の後ろにいた付き添いのおじさん、おばさんたちがどっと身を乗り出した。その反動で、当時、70キロの体重(今より重い)を誇っていた肥満児の私も危うく押しつぶされそうになってしまった。災難はどこにころがっているかわからないものだ。だが、そんな私のことなどおかまいなく、「一生懸命にネズミの絵を探すひとがいますけど、もうありません」と案内係。私の背後から大きな笑い声が聞こえてきたのを今でもはっきりと覚えている。
薄暗い本堂内とひといきれ、そして案内係のジョーク。思えばそれが、私にとって初めての「雪舟体験」だった。「涙でネズミ」の話はそれ以前から知ってはいたが、これほど身近に雪舟を感じたのは初めてだったろう。年賀状の裏に雪舟の「秋冬山水図」(国宝 東京国立博物館)の絵を描き始めたのも(このことは前回の「読み物」に記した)、あるいはこれがきっかけだったのかもしれない。
そんな、なじみ深い雪舟の展覧会が2002年3月、当館で開催される。詳細は展覧会案内に就いていただきたいが、彼の代表作はもちろん、国内外の優品が一堂に会する大回顧展である。私のそれとは違い、必ずや最良、最高の「雪舟体験」ができることだろう。
なお、あらかじめおことわりしておきますが、本展にネズミの絵は出品されません。
[No.133 京都国立博物館だより1・2・3月号(2002年1月1日発行)より]