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No.32

見ること・見えること・見せること

永島 明子

 漆工担当の私は、当館の収蔵庫にある漆工品を撮影する際、必ず現場に立ち会う。撮影は「写場」と呼ぶ巨大スタジオで当館専属のプロカメラマンが行う。当館の活動以外で急遽写真が必要になることもあり、その場合は他の業務に割り込むようにしてカメラマンと日程を調整し、作品を写場へ運搬する。どんなに疲れていても写場に到着するとなぜかやる気が復活する。

 漆工の撮影にはどんな立体物にも通じるアングル決定の難しさに加え、表面の反射を制御するという難題がある。漆の艶の度合いは作品によってまちまちだが、鏡のような黒漆地や総沃懸地などはカメラマン泣かせと言える。逆にこの二つの問題をいかに克服するかが腕の見せ所である。

 硯箱を撮るとしよう。作品に合わせてバックペーパーの幅や作品を乗せる台の高さを決める。おおよその照明もカメラマンの頭の中ですでに計算されていて、ライトが2燈あるいは3燈立てられる。スポットライトの当たる晴れ舞台に、あとは作品が乗るだけ、というところに硯箱を置く。

 全体の姿がわかるように、箱の手前を左右どちらかに振って置く。カメラは斜め上から俯瞰する。この時、硯箱の意匠によっては右側から撮るのか左側から撮るのかで蓋表の図柄が全く違って見えてくる。例えば鹿が下向きにうなだれて見えたり、逆に寝転んで脚を上げているように見えたりする。片目を瞑って物を見るとわかるが、こういう変化は人の目と脳の働きを考えさせておもしろい。作者がここから見て欲しいと思った角度を想像したりする。

 箱の形も変わって見える。振り方が足らないと長方形の硯箱が正方形に見え、逆に振りすぎると細長く薄っぺらな箱に見える。円形の椀、楕円形の盆、大きな作品、小さな作品、それぞれに合った細かな調整が必要になる。ここまでは担当者として、私なりに思う作品の魅力が損なわれないよう、ああだこうだと注文をつけ、撮影に参加した気分を味わう。しかし、本番はここから。

 光の調整だ。曲面のある漆器などはどうやってもライトが反射する。ライトどころかバックペーパーの切れ目、作品に対面するカメラ、時にはカメラマンの顔までもが映り込む。これを消す作業が一苦労。黒い布や紙を使って反射の元を覆う。覆うと言っても作品が安全なように、効率よく確実に、となるとそう単純ではない。しかし、当館のカメラマンは広い写場の方々から、さまざまな小道具をひょい、ひょいと出してきて、うまい具合に反射を隠してしまう。それも全部隠すとのっぺりとした不自然な姿になるので、そうはしない。レフ板を微妙な角度に固定して「この稜線と角の部分を光らせましょうね」などと、作品の雰囲気に合うように、あるときは引き締まったハイライトを、あるときはやわらかな明かりを残して、作品の見え方を演出してしまうのだ。その姿はまるで魔法使いかマジシャンか。

 実際、その匙加減で作品の見え方は激変する。撮影の時間は作品の隠された顔を見ることのできる愉快この上ない機会と言える。その一瞬の姿を紙に焼き付けたものが図録写真である。皆さまも図録写真と実物との違いに驚かれることがあるだろう。それもそのはずなのである。古美術品の撮影では被写体自体に強大な存在感がある場合が多い。その見え方に的確に手を加える能力と自信は、誰もが持てるものではない、と私は思う。作品と面と向かい、自分の見方を検証するような作業を通して、作品の魅力を人に伝える。博物館ならではの仕事だと思う。

[No.132 京都国立博物館だより10・11・12月号(2001年10月1日発行)より]

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