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No.51

銅版画と中国紙

西上 実

 中国絵画史を専門にしながら、作品の材質についてはふだんから無頓着な小生ではあるが、最近さすがにこれを反省させられる事件に遭遇した。

 当館では二年前に東京の古書店から「準回両部平定得勝図」という銅版画を購入したが、これは、中国清朝の絶頂期に君臨した乾隆皇帝(1711~99)が西域の準噶爾・回彊両部を平定したのち、その勝利を後世に伝えるため、両役における記念すべき十六景を選び、宮廷画家として仕えていたカスティリオーネ(1688~1766)らヨーロッパ出身の宣教師に原図を描かせ、これをフランスはパリの王立画院に送って作らせた銅版画(エッチング)で、十八世紀における東洋と西洋との緊密なる文化交流を物語る非常に貴重な美術作品である。

 当館で購入したのは図が九枚のみの残欠本ではあるが、各図縱51センチ、横90センチ前後の大画面で、広大な山野に無数の人馬がひしめき、戦闘を繰り広げる光景は見る者を圧倒する。

 ただ、赤茶けた染みが全体を覆い、印象を損なっていたので、中国書画の修復が専門の業者に修理を依頼した。いつもとは違う西洋紙を扱うため、慎重に作業を進めるように念押して手渡し、しばらくたってやはり心配なので連絡を取ってみると、主人から意外な返事が返ってきた。「作業はうまくいっています。紙は洋紙ではなく、手慣れた中国紙、しかも上質の宣紙であるから大丈夫、安心してください。」という。驚いて、関係論文を読み直してみると、中国紙に刷られた「得勝図」の存在が浮かび上がってきた。

 原図は乾隆三十一年(1766)までにすべてフランスに送り届けられたが、パリでの銅版画製作は遅延し、十六枚一組の戦図が二百部刷られて、銅版と共に中国に送られて来たのは、九年後の乾隆四十年(1775)。この間、完成を待ちわびる乾隆帝は出来上がった銅版をフランスから直ちに送らせ北京で刷らせようとしたが、銅版画製作の総監督コシャンは抗弁して、北京宛の手紙のなかで、材料や技術の違いから中国で印刷することの困難を論じている。注目されるのは、中国紙・洋紙に刷った際の難点をそれぞれ事細かに説明している点で、すでにパリでも「得勝図」を中国紙に試験的に刷っていたことがわかる。しかし、京博本はそのサンプルではなく、乾隆帝がフランス刷り二百部を分賜した後、更なる需要に応じるため同じ銅版を用いて北京で新たに二百五十部ほどを刷らせた後刷り本の一組と思われる。

 修理後の京博本を洋紙に刷られた「得勝図」と改めて比べてみると、コシャンが忠告したとおり、印刷上のさまざまな欠点を持つものの、インクが紙に浸透してどぎつい明暗の対照が消え、遠山や雲は淡く浮かび上がって水墨画を見るような穏やかな趣がある。なるほど、レンブラントをはじめ、欧州の銅版画作者たちが東洋紙を珍重した理由が門外漢の小生にも理解できるようになった。

[No.151 京都国立博物館だより7・8・9月号(2006年7月1日発行)より]

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