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No.53

ある和本の作者

羽田 聡

 当館の書庫には、『光厳院宸翰法華経裏書 後深草院宸筆御消息考証』と題する8冊の和本が配架されている。内容は「伏見天皇宸翰法華経」(重要文化財、妙蓮寺蔵)、すなわち父である後深草天皇の供養のため、送られた消息171通の裏に伏見天皇が全文みずから書写した法華経、に関するものである。各巻の巻首と巻末、および紙背の消息すべてを謄写(透き写し)したうえ、一通ずつに翻刻と考証を加えており、秀作といってよい。

 書誌情報はないが、京都帝室博物館の罫紙を使用している。官制の改正により帝国京都博物館から名称を改めるのが明治33年(1900)6月、昭和天皇の成婚を記念して京都市に下賜されたのが大正13年(1924)2月のことなので、この間に作成されたことになる。残念ながら、この和本からでは、誰がこのようなすばらしいものを作成したのかわからなかった。

 ところが先日、博物館の歴史を調べる関係で昔の記録類をみていたら、昭和2年(1927)9月のところで「史料編纂掛ヨリ妙蓮寺法華経紙背文字写取ノ件」という案件が目についた。ここには、史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)が妙蓮寺法華経の撮影を依頼してきたことにあわせ、さきの和本の貸与を申し出たことについて記されている。結局、博物館側ではこれを館内で参照するよう返答したのだが、そのなかに

 右ハ当館学芸委員タリシ田中勘兵衛氏ガ、京都帝室博物館鑑査官在職時代ニ二十数年ノ歳月ト苦心努力トヲ費シ、研究考証シタルモノニ有之、

 という一節があった。

 図らずもこの和本は、田中勘兵衛(教忠、1838〜1934)が長年にわたる苦心と努力のすえ作り上げたものと判明したのである。彼は稀代の蒐集家として著名であった一方、そのさいに培った確かな眼識と考証力をもって学芸委員として当館の発展にも大きく貢献した。大正8年に鑑査官に任ぜられた教忠は、同12年に86歳で免官するまで在職するので、まさに集大成とよぶにふさわしいものといえるだろう。ちなみに、コレクションの大部分は現在、「田中穰氏旧蔵典籍古文書」として国立歴史民俗博物館に収蔵されている。

 いまとなっては、教忠が「二十数年ノ歳月ト苦心努力トヲ費シ」てこの和本を作成した動機はわからない。もちろん、後進のための記録資料としてということもあるだろうが、当館の所蔵する「後深草天皇宸翰消息」(重要文化財)は彼の旧蔵品であり、このあたりに関係性を見いだすことも可能だと考えている。

[No.153 京都国立博物館だより1・2・3月号(2007年1月1日発行)より]

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