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No.60

狂斎のいた近代

奥平 俊六

 十代の修行期をまるごと駿河台狩野で研鑽を積んだ河鍋暁斎は、狩野派の画家である。ただ、その旺盛な好奇心と圧倒的な画力を背景にした自在なサービス精神は、子どもの時に手ほどきを受けた国芳、そして北斎に連なる。初め狂斎と号したが、明治三年筆禍で入牢して以降暁斎とあらためる。こうしたあり方もその笑いと風刺の表現も、確かに浮世絵の伝統の上にあり、国芳や敬愛した狩野派の異端児英一蝶に似ている。

 狂斎は、欧米での認知度がきわめて高い。作品がたくさん舶載され、ギメやブリンクリーといった同時代の優秀な紹介者がいたこともあり、今に至るまで欧米の狂斎ファンは多い。にも関わらず、日本ではびっくりするほど知られていない。

 江戸の人、狂斎の展覧会がなぜ京都国立博物館で行われたのか。狂斎は近代を生きたが、やはり江戸時代人であった。江戸(時代)の粋は、大仰なタイトルを付けて強引に名品を狩り集める展覧会をよしとするところではなかなか理解されない。あえて因縁を探せば、特別展示館(旧帝国京都博物館本館)を設計した片山東熊は、辰野金吾とともに建築家コンドルの弟子であり、そのコンドルは、実は狂斎の絵の弟子で、暁英という名をもらっている。狂斎の没後120年記念展は、奇しくも孫弟子の建てた明治建築で行われたことになる。

 版画を除き、下絵もそれほど用いず、本画中心で狂斎展を企画する。これはかなり勇気がいることだったと思うが、この英断が、かえって幕末明治に生きた一人の絵師の実像を鮮やかに浮かび上がらせた。見所はたくさんあったが、個人的には、十四歳で亡くなった少女のために描かれた「地獄極楽めぐり図」の小さな優しい世界や、強烈な血まみれ絵「処刑場跡描絵羽織」が見られたことがうれしかった。

 細やかな展示の工夫にも感嘆した。たとえば、「幽霊図」とその下絵を展示するのに、あえて並列せず、振り返ったところに配置するのは心憎い演出である。徹底的な観察を元にその視覚記憶によって描いたという狂斎の方法を思い起こしながら、私は何度も記憶した画像と比べてみた。

 暁斎の伝記『河鍋暁斎翁伝』が刊行されたのは著者飯島虚心の没後八十年以上たってからであった。虚心は、かつて榎本艦隊に従って函館まで行った下級幕臣であったが、近代の中で失われつつあるものを見据え、記録し続けた。林政史研究から歌川派列伝まで書き残した虚心は、日本は何を残すべきか、何を誇りにして近代を生き抜いていくべきかということがはっきりとわかっていたのではないだろうか。それは少なくともグローバリズムなどという薄っぺらなお題目なんかじゃなかったことは確かである。暁斎の作品を見ながら、彼の伝記を丹念につづった虚心の営為を思い起こし、そして若い人たちに、暁斎や虚心のことをもっと知ってほしいと強く思った。

 本展は、暁斎顕彰に生涯を捧げてきた曾孫の河鍋楠美氏、該博な知識を持つ大英博物館のティモシー・クラーク氏の協力を得たことも大きいが、これだけ質の高い独自展を開けることがやはり京都国立博物館の底力であろう。大胆な企画、構成とともに、それをフォローする丁寧な仕上げが目を引いた。複数の個性が絶妙にからみあっているのを感じた。

[No.160 京都国立博物館だより10・11・12月号(2008年10月1日発行)より]

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