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No.106

ある学芸職員の手紙

京都国立博物館研究員

森 道彦

 3年前の夏、京北(京都市右京区)の山あいの集落に伝わる宝物の整理をお手伝いするということがあった。その時のわたしは京都の地域博物館(京都文化博物館)に勤めており、地元にそっと根付いた心惹かれる中近世の絵画・典籍類を求めてあちこち車で訪ね回っていた。京北は京都市街の北西に巨体を横たえる愛宕山、その山向こうにある小盆地で、神護寺や高山寺といった名刹を通る、緑したたる周山街道を走り抜けた先にある。そのとある集落の小寺院に結構な数の中世の経典と仏画類が安置されていると聞きつけ、市の文化財保護課はじめ数人の方々とお伺いしたのである。わたしが特に心惹かれたのは、経典の奥書や箱などにびっしり綴られた当地の人々による宝物の出納や修理・虫干しなどの記録で、六百年にわたる住民の生の痕が生々しく、焼けつくような日差しに照り出された田園の光景とあわせて深く印象に残っている。

 さて宝物を整理していると、居並ぶお寺のご住職と集落の方々が一通の手紙を取り出しつつ、これらの経は戦争中、東京の博物館から先生が来られて大変に褒めてくれた村の宝なのだと教えてくださった。手紙の出し主は、戦前戦後の仏教考古学の泰斗であった石田茂作氏(1894~1977)という人物。気になり調べてみたところ、戦前の石田は東京帝室博物館(現東京国立博物館)列品課に勤め、終戦間際の一時期、確かに京北に滞在したことがある。それは昭和17年4月から終戦前日まで行われた、東京所在の貴重な文化財の疎開作業に伴ってのことだった。時の宮内省の助力も仰ぎながら特に貴重な品が東京郊外や福島、岩手、奈良などに密かに運ばれ、京北は昭和20年4月の第5次疎開先の一つに選ばれた。疎開品は皇室ゆかりの禅刹、常照皇寺と近在の旅館が受け入れ、石田が京北に移ってその看守と環境管理にあたり、仕事の合間を縫って周辺の城跡や宝物の調査にも従事したらしい。

 戦時の非常下、文化財を護り伝える仕事は必ずしも敬意を払われたわけではなかったらしい。戦後日本を代表する仏師・仏像修理技術者として活躍した西村公朝氏(1915~2003)は、中国から復員した当時の状況をこう回顧する。「…老技術者のみが細々と国宝修理を続けながら、国宝を戦災から防ごうという国家の計画に従い、多くの仏像の疎開を手伝っていたのである。…老人たちの話によれば、戦時中に仏像を修理している者は国賊であるとまで隣近所の人達からいわれていたそうである。私が帰国して最も感激したことは、この老人たちが修理を続けていたことと、日本があれ程の惨敗をしている最中でも国から補助金を出して、国宝修理を続けさせていたことである。」空襲を避けつつ、いつ終わるとも知れない看守を各地で務めた当時の職員の心労は果てしないものだったろうが、一方でその当時働いた石田の存在が京都の一地域の人々の記憶に留まり、その言葉が70年あまりも地域の宝を保たせる支えとなっている事実にも、一つの重みがある。戦後、石田は京北を離れるに際し、経を守り続ける村人たちに「郷土の誇りとして是の保存には万全の注意を払はれん事を望む」と書き残した。

 あの困難な時期に石田が身をもって示したのは、人が文化遺産を尊いものとし、社会が過去とのつながりを絶やすまいと願いつつ生きていくために、博物館という施設とその職員はどんな時も貢献し続けるということだろう。特別企画「文化財修理の最先端」(※)も京博のそのような一面を表す展示として、ぜひ多くの方々に足をお運び頂きたいと願っている。これは戦後数十年をかけ、日本の文化財修理の一中心と活動してきたこの博物館の成果の一端をご紹介するもので、蛇足を申せば、昨年夏に着任して一年あまりをこの博物館で過ごしたわたしが初めてきちんとお手伝いする企画展示でもある。

※特別企画「文化財修理の最先端」は2020年6月23日~7月19日の開催を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症の感染予防・拡散防止のため、会期未定となりました。

[No.206 京都国立博物館だより4・5・6月号より]

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