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No.107

もっとあなたを知りたくて

京都国立博物館教育室長

永島 明子

 何も話してくれないあなたのことを、もっと知りたい。あなたの魅力をうまく言葉にあらわしたい。そう思って、あなたをみつめる。わたしはいつだって片思い。

 漆器はつれない。なにも喋ってくれない。けれど、その素性が垣間見えるときがある。漆塗りの艶の加減、蒔絵粉の形や大きさ、金の純度、螺鈿の切り方、文様の位置や意味、木地の重さや精度…。そんな素振りや表情を、これまでに出会った漆器たちの思い出に照らしあわせると、およその年代や出自がわかる。外箱に記された文字や、漆器が伝わった場所の歴史を探偵気分で調べるうちに、その漆器を作った人、使った人、贈った人、商った人たちの暮らしが心に浮かんでくる。興味のない人には、古ぼけた木製品にしか見えないかもしれない。けれど、古い漆器はこちらの思いに応えて、今はもういない誰かの人生をそっと教えてくれる。そして、過ぎ去った人生はいつも切なくて愛おしい。

 そんな思いを抱かせる漆器のなかでも、婚礼調度は格別である。幼くして政略の道具となった姫君や若君のために、実家や婚家が威信をかけて作った家具調度。種類も形も寸法も礼法に従っているので、見れば大抵それとわかる。化粧道具や文房具、茶箪笥や薬箪笥、楽器や遊具、食器や乗物…。客人や女中の分も含めて多いときには数百の品目が、統一されたデザインで作られた。しかし、その規模がそのまま伝わることはない。嫁ぎ先で立派に成長した姫君は、親戚縁者の祝儀に数点を選んで贈ったり、娘や孫の婚礼に家紋を塗り替えて持たせたりした。姫君没後は形見分けがあり、一部は菩提寺に納められた。残った品も近代には売りに出され欧米に渡ったりした。大切に伝えられたことに変わりはないが、幾多の人生を巡るうちに、どの姫君の持ち物だったか忘れられる道具が少なくない。

 京博にもそんな漆器がある。なかでも、とりわけ豪華な「枝垂桜祇園守紋蒔絵見台(しだれざくらぎおんまもりもんまきえけんだい)」は思わせぶりである。全体に金粉を蒔き詰めて高蒔絵(たかまきえ)や金貝(かながい)で装った姿は、紛れもない大名家出身のしるしである。精緻な水辺の景色にあでやかな枝垂れ桜。個性的な家紋。絵の雰囲気は江戸時代の中ごろのもの。外箱に貼られた近代の紙札には「因州公傳来」とある。探してみると、同じ図柄の調度が大阪市立美術館にあるが、因州ではなく備前池田家の売立目録に載る。「祇園守紋」は池田家のほかに鍋島家や立花家も用いた。そういえば当館には、少し時代の下がる枝垂桜文様に、別形の「祇園守紋」と黒田家の「藤巴紋」がついた短冊箱があり、そのシリーズも備前池田家の売立目録に載っている。

枝垂桜祇園守紋蒔絵見台 京都国立博物館

枝垂桜祇園守紋蒔絵見台 京都国立博物館

こうしたことを念頭に、大名家の姻戚関係を調べ、祇園守紋の変遷を扱った論文を読む。すると、ふたりの姫君が浮かび上がり、ひとつの筋書きが想定された。柳川藩立花家の姫君「心空院」が福岡藩黒田家へ嫁すとき、見台のシリーズを持参した。その後、黒田家に嫁したその姫君の曾孫にあたる「宝源院」が、備前岡山藩の池田家へ輿入れすることになり、見台のシリーズの一部とこれに合わせて作った短冊箱のシリーズを持参した。「宝源院」が亡くなると、今度はその一部が形見分けとして親戚の因州池田家にもたらされ、近代になって備前も因州も調度を手放した。

あとは、この推理を各大名家の古文書に当たって検証するだけ、と土曜講座で話したきり雑事に追われて早十余年・・・。片思いは募るばかりである。

[No.207 京都国立博物館だより7・8・9月号(2020年7月1日発行)より]

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