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No.124
雪舟には描けなかった山水画
山口県立美術館 副館長
荏開津 通彦
今春4月20日に評判の高い「雪舟伝説展」を拝見した。9時の開館直後に入館し昼過ぎまで展覧会を観覧し、午後は綿田稔さん(文化庁)の講演をお聴きした。会場では畑靖紀さん(九州国立博物館)の姿もお見かけした。私と綿田さんと畑さんの3人は、30年来ともに雪舟研究に携わってきた仲間である。この展覧会でお二人に会えたのはいい記念になった。
展覧会はじゅうぶんに堪能した。第一章の「雪舟精髄」には、国宝に指定されている雪舟の作品6件すべてが展示されており、作品ひとつひとつに十分なスペースが与えられていて、贅沢な空間の中で雪舟画の素晴らしさを存分に味わうことができた。
この「雪舟伝説展」は広報にもいろいろな工夫がなされ、チラシからして面白い作りであった。展覧会の概要を記す部分に大きな「※「雪舟展」ではありません!」という見出しとともに、この展覧会は「雪舟」の展覧会ではなくて「雪舟の受容史」の展覧会なのだ、という説明が注意書きのような体裁で書かれている。6件もの作品が国宝になっているのは雪舟だけ(2位は狩野永徳の4件)で、近代における雪舟に対する評価は日本の画家のなかでひときわ高い。これは明治維新以降に始まったことではなく、近世を通じて雪舟の評価は一貫して高かった。長谷川等伯(1539〜1610)、雲谷等顔(1547〜1618)、狩野探幽(1602〜1674)、尾形光琳(1658〜1716)、曾我蕭白(1730〜1781)といった錚々たる画家たちが雪舟画に学んだ作品を残しているのである。雪舟の受容史を辿ることによって近世絵画史の流れを確かめることになり得る所以である。会場に並んでいた作品で、その美しさに感動したのは狩野探幽の2点の「山水図屏風」【27】と【28】、そして曾我蕭白「富士三保図屏風」【59】であった。とくに図録の表紙にも取り上げられている探幽の「山水図屏風」【27】は、展覧会に出品されること自体が今回が初めてであり、この度の紹介は探幽研究においても大きな意義のあることであった。
探幽と蕭白の屏風は大画面の山水図だが、雪舟その人には基準的な(真筆であることが間違いないと考えられている)大画面山水図が現存しない。パトロンであった山口の守護大名・大内政弘の邸の襖などに山水図を描いたことは確実だが、実作品が残されていないのである。これは推測になるが、雪舟自身は大画面の山水図はあまり得意ではなかったのでないか。雪舟の絵は描き込み過ぎてくどくなる傾向がある。大画面にすると息苦しくなってしまう。その点探幽や蕭白は、雪舟の構図やモチーフを用いながら上手に余白のある画面を作り出している。雪舟にはこうは描けなかったのではないかと思う。
自宅に帰ってから、展覧会を企画担当された福士雄也さんの図録巻頭論文「「画聖」雪舟への道程」を拝読した。近世を通じての雪舟受容史を概観するためには膨大な量の文献を見てゆくことが必要で、引用資料の多さからそのご苦労がしのばれた。この論文中、儒学者松崎慊堂の日記『慊堂日暦』の記述から伝雪舟筆「唐土勝景図巻」【67】および「国々人物図巻」が、江戸時代後期に大坂の豪商加嶋屋に所蔵されており、周囲にその存在が広く知られていたことを突き止めたのは、鮮やかな発見と評価されよう。ただしなんらかの事情によるものか、「唐土勝景図巻」の影響が及ぶと考えられる伊藤若冲「乗興舟」や与謝蕪村「夜色楼台図」(佐藤康宏「雅俗の都市像」『講座 日本美術史1』東京大学出版会、2005年)は出品されておらず、その点は惜しまれた。
[No.224 京都国立博物館だより10・11・12月号(2024年10月1日発行)より]