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No.123

千三百年前の月

京都国立博物館 主任研究員

竹下 繭子

あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

『古今和歌集』に収められるあまりにも有名なこの歌は、阿倍仲麻呂が唐で詠んだと伝えられる。奈良時代の養老元年(717)、阿倍仲麻呂は遣唐留学生として唐に渡り、時の皇帝・玄宗のもと官人として仕え、帰国を果たせないまま770年に唐で生涯を終えた。遥か異国にいても空を見上げれば、かつて故郷の奈良で、春日の三笠山で見た月と同じ月が見える――千三百年の時を経ても、仲麻呂の望郷の思いがひしひしと伝わる歌である。

十数年前のことになるが、ある先生が「阿倍仲麻呂じゃないけれど、月を見て異国を思ったことは初めてだよ」と仰った。先生が月を見たとき、私は中央アジアのタクラマカン砂漠の中心で同じ月を見ていた。シルクロードの西域南道に位置する于闐国の遺跡の調査隊に加わり、タクラマカン砂漠で1ヶ月のテント生活を送っていた。先生は月を見て、あいつは大丈夫だろうかと心配してくださったのである。

砂漠での調査は気候の安定する時期を選んではいたものの、とても過酷であった。昼は40度を超えるなか砂漠のなかを何キロも歩いて遺跡を踏査し、零下10度ほどになる夜はベースキャンプのなかで整理作業を行う。時折、気まぐれのような砂嵐が起こる。風によって運ばれた砂が丘を作り、その丘は刻々と姿かたちを変える。あたり一面、見渡す限り砂丘が続く。一つの丘を越えると来た方角がわからなくなるので、GPSは必携である。用を足すときは人目につかないようキャンプから砂丘を二つばかり越えた先に行くのだが、夜にGPSを忘れて迷いかけたことがある。小用も命がけである。

4世紀末、インドへ求法の旅に出た中国僧の法顕はこの流沙を歩き、「上に飛ぶ鳥なく、下に走獣なし」と述べている。それから200年後に『瑜伽師地論』という仏典を求めてインドへ渡った玄奘は、莫賀延磧と呼ばれるゴビ砂漠で九死に一生を得た。私がこの調査に参加したのは求法僧の旅路の苦労を体感したいという動機であったが、法顕も玄奘も命がけで砂漠を旅するなかで、この夜空を見上げたこともあっただろうと、砂漠の月を見ながら思いを巡らせていた。

さて、話を元に戻すと、阿倍仲麻呂は玄宗の許しを得て帰国の途についた。冒頭の歌は、送別の宴席で詠んだものらしい。仲麻呂は遣唐大使とともに第一船に乗ったが、船がベトナムに漂着して長安に戻ることとなった。同じ時、副使の第二船に乗って日本への渡航に成功したのが鑑真である。鑑真も本来であれば第一船に乗るところであったが、大使が唐との政治的な駆け引きで鑑真の乗船に消極的になったので、副使が独断で自分の船に乗せたことが幸いした。鑑真は日本への渡海に5回失敗して、その間に長年連れ添った弟子を亡くし自身も失明するが、それでも折れない強い決意、強烈な使命感にただただ尊敬の念を抱く。鑑真の伝記である『唐大和上東征伝』のなかで、鑑真が日本への渡航を決意するシーンに、長屋王から送られた袈裟が登場する。袈裟には「山川異域、風月同天」と刺繍されていた。当時の人が天を見上げてつながりを感じていたように、月を見ると地域どころか時代を超えて気持ちが通じるような気がする。文化財も同様で、文化財に接していると先人の真摯な心を感じる瞬間が多々ある。この心を守り継ぐことも現代人の本分であると信じている。

[No.223 京都国立博物館だより7・8・9月号(2024年7月1日発行)より]

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