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No.122
永遠ではないもの
京都国立博物館主任研究員
井並 林太郎
2021年に祖母が100歳で亡くなり、その葬式で「大往生と言う人もいるが、もっと生きてほしかった」と口にした祖父も、昨年9月に98年の生涯を閉じた。九十何歳のときだったか、長生きの秘訣を「執念」と言い表した祖母だったが、後に「もうおしまい」など弱気な発言が目立つようになった。最晩年まで旺盛な食欲を誇った祖父も、物を十分呑みこめなくなってから一気に衰弱した。
ここ数年はコロナ禍、戦禍に、テレビで観ていた人やずっと聴いていた歌手が突然いなくなる知らせもよく届き、悲しい気持ちや無力感に襲われることが多い。今年は元日から震災もあって、当たり前に続くと思っていたものがぐらぐらと揺らぐ感覚が、もちろん当事者の方々には及ばないのだろうが、より切実に迫る。親しんだ風景や価値観の移ろい、時の変化の追いつけない速さには、感傷どころか多少うんざりしている。
ただ、特別展をかかえて目の前の日々が忙しいということと、博物館の仕事では何十年、何百年というスケールで過去や未来の人やモノについてよく考えるということが、自分にとってはひとまず幸いである。
今年は法然が浄土宗を開いたとされる承安5年(1175)から数えて850年ということで、東京から始まる巡回展「法然と極楽浄土」が当館でも開催される。平安時代末期、仏道を十分に修められないことに二十年以上悩んでいた法然は、この年のある日、経蔵で開いた善導の『観経疏』の一節から、誰もが可能な称名念仏こそ阿弥陀仏が選んだ本願の行であるという確信を得て、進む道を定めたという。
法然の専修念仏は、末法という困難な時代に生きる人々に広く迎えられ、その後の日本仏教を大きく様変わりさせた。この文章を書いているのは図録原稿がひと段落したタイミングだが、「困難な時代」とはどういうことだったのか、なぜ専修念仏の教えが多くの人に受け入れられたのか、文章では何度も説明されていることであろうが、今の時代にひきつけて思いを巡らせることが何度もあった。答えが言語化できたわけではなく、特に解説や総論に直接反映されてもないが、少しでも実感に近づくことが必要だとは考えていた。
法然の弟子の親鸞も、六角堂で救世観音から煩悩にかかわる夢告を受け、その思想に方向性を得て、阿弥陀仏による救済の教えを人々に弘めていく。苦悩の果てに一種の真理や啓示にたどり着くのはどの宗教者も同じであろうが、法然も親鸞も、仏法の退廃した時代に愚かな凡夫である自己や他者にどう向き合うかという点が際立っており、その過程には等身大の手触りがある。
東日本大震災の起きた2011年も、法然、親鸞の大きな展覧会が東京や京都で開かれた。東京国立博物館の「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展のチラシには、阿弥陀聖衆が花咲く山を越え死にゆく人のもとへ迅雲に乗り駆けつける「早来迎」(知恩院蔵)が大きく配され、そこに記された「誰をも忘れないという想い。」というコピーが多くの人の心を打ったという。かつて死と救済に直結して作られた来迎図は、何百年後の現代においてもその意義を失っていない。
[No.222 京都国立博物館だより4・5・6月号(2024年4月1日発行)より]