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No.126
博物館教育の問題
京都国立博物館 教育室長
大原 嘉豊
「教育は効率が悪い!」
教育室長に着任してから約2年を経た素直な感想である。
まず、講座・講演・ワークショップなど、目の前の対象に限定されるうえ、施設・人員・経費などの制約が、その対象人数の上限を自ずと決定してしまう。
また、「対象」も問題で、年齢はもちろん、愛好家から初心者まで様々なレベルの人が混在している。それぞれの段階に応じたプログラムがないと、教育効果を発揮することができない。小学生にいきなり微分積分をやれといってできるわけがないのである。私が、令和6年に「体験! 昔のコピー技術―油紙を中心に―」という内容で「少年少女博物館くらぶ」を復活させた際に、小学校5・6年生に募集対象を限定したのは、歴史教育との連動が必要だったからである。美術というのは、高等な人文学的産物であるため、かなり対象を選んでしまう。恐竜や生き物といったこどもキラーコンテンツを持つ自然科学系博物館との違いがここで、学習基盤が整っていないため効率の悪い小学校中学年以下の文化財教育普及事業にどれぐらい経営資源を傾けるべきかは検討の余地がある。
博物館教育普及活動は、博物館制度発祥の地である欧米で重視されてきており、教育のプロであるエデュケーターが専属で置かれることが多い。欧米をモデルとした世界各地の博物館でも同様である。基本的に学童層が主対象になっているため、こどもの著しい成長期でもっともきめ細やかなプログラムが要求されるわけであるから、教育専門学芸員は必要であると思う。
それはともかく、この博物館教育を機能させるためには、対象が博物館に来る機会が必要になる。やはり、来てもらわないとなんともならない。
こどもが自発的にその動機を持つことは、なかなか難しい。その機会を提供するのは、親か学校かということになる。親は親で、美術への理解の有無は、こどもにそうした機会を付与する動機をかなり左右する。フランスの社会学者のピエール・ブルデュー(1930~2002)に『美術愛好:ヨーロッパの美術館と観衆』(木鐸社、1994年)という著作があり、ここではフランスの博物館が労働者教育を錦の御旗にして予算獲得していながら、実際に来館するのは大学生や中産階級以上でほぼ占められている現状を欺瞞だと指摘しているが、過去、美術というのが富と有閑が齎す高等な人文学的産物であった以上、日本でもその事情は共通している。
そうなると多様な社会階層のるつぼである公立学校教育の役割は非常に大きくなる。学校のカリキュラムの一環に博物館訪問が組み入れられるかどうかというのは、かなり切実な問題なのである。ところが、国立博物館は、公立学校教育の仕組みから遊離している。公立学校教育の管理・施行は地方公共団体が担当するからで、我々も苦労している。
では、地方公立博物館は順調かというとそうでもない。平成30年に文化財保護法が改正され、地方公共団体における文化財保護の事務は教育委員会の所管とされていたものを、条例により地方公共団体の長が担当できるようにしてしまった。このせいで、奈良県をはじめ、文化財保護行政が首長部局に移管されてしまった所が多い。本来、文化財保護法制定時の趣旨も、博物館教育は、教育委員会との連携が必要との認識が根底にあったと思う。しかし、現状は、教育より、観光などによる経済効果を優先するに至ったといえる。文化財保護の原資調達という点からやむを得ない面があるのは認めるが、ここに国家百年の大計があるかというと疑問である。文化財のような国内コンテンツは国内需要を基底にするのが持続可能性の第一歩と私は思っているのであるが、日本史や美術といった人文系教育の軽視は、その基盤を若い世代からごっそりと崩している。高齢化社会に伴い社会保障関係費が急増し国家予算が硬直化している現状、文教費を含めて厳しい査定が行われるのは、やむを得ないかと思う。しかし、教育には失敗が許され難いため実験的要素を持ち込むことがかなり難しく、過去実績をベースにした緩やかな発展経緯をとらざるを得ないため、保守的であり成果も見えにくい。税金を頂戴している以上、「費用対効果」を説明するのは義務なのであろうが、教育・研究というものの難しさについては、博物館だけに限定されるものでなく、もう少し国民の皆様にも将来投資という観点で中長期的視野を持って頂きたいと思う。
[No.226 京都国立博物館だより4・5・6月号(2025年4月1日発行)より]