美術室 山本英男
2016年02月26日
室町(むろまち)時代には、数多くの水墨(すいぼく)山水図が制作(せいさく)されました。でも、そのほとんどは中国の風景(ふうけい)、しかも実際(じっさい)には存在(そんざい)しない空想の景色(けしき)を描(えが)いたものでした。例(たと)えば、相阿弥(そうあみ)(室町幕府(むろまちばくふ)の唐物奉行(からものぶぎょう)、?~1525)の手になる「月夜山水図(げつやさんすいず)」はおそらく瀟湘八景(しょうしょうはっけい)(中国湖南省洞庭湖周辺(こなんしょうどうていこしゅうへん)の八通りの景観(けいかん)を絵画化したもの)のうちの「洞庭秋月(どうていしゅうげつ)」をあらわしているのでしょうが、あくまでそれは画家のイメージであって、実景(じっけい)に基(もと)づくものではけっしてありません。また松谿(しょうけい)筆「湖山小景図(こざんしょうけいず)」(図1)に一文を寄せる翺之慧鳳(こうしえほう)(東福寺(とうふくじ)の僧(そう))は、この絵の景色を己(おのれ)がかつて旅した杭州西湖(こうしゅうせいこ)の光景(こうけい)になぞらえていますが、絵の中をいくら見回しても、西湖と特定(とくてい)できるような景物(けいぶつ)は見当たりません。松谿が描いたこの絵は「どこかはわからないが、きわめて風光明媚(ふうこうめいび)な中国の風景(ふうけい)」にすぎないというわけです。
ところが、ここに取り上げる「天橋立図(あまのはしだてず)」(図2)はわが国の実景に取材(しゅざい)しているばかりでなく、その威容(いよう)を迫真性豊(はくしんせいゆた)かに表現(ひょうげん)したものとして高く評価(ひょうか)されています。この絵の筆者は雪舟(せっしゅう)(1420~1506?)。そう、皆(みな)さんよくご存(ぞん)じの室町時代を代表する水墨画家で、初(はじ)めて中国に渡(わた)った日本の画家としても知られています。その彼(かれ)が八十歳(さい)を過(す)ぎた頃(ころ)、丹後(たんご)の地を訪(たず)ね描いたのがこの「天橋立図」です。
絵を眺(なが)めてみましょう。中央には主役ともいうべき天橋立が長く横たわり、その向かって左には文殊信仰(もんじゅしんこう)で名高い智恩寺(ちおんじ)が見えます。また橋立の上方には阿蘇海(あそかい)をはさんでたくさんの社寺が林立し、その背後には高くそびえる山と観音霊場(かんのんれんじょう)である成相寺(なりあいじ)が配されています。一方、橋立の下方にも海があらわされていますが、これは日本海に通じる宮津湾(みやづわん)。さらにその宮津湾をちょうど取り囲(かこ)むように描かれた、なだらかな山並(やまな)みは栗田(くんだ)半島です。
一見したところ、実景そのままを写し取ったように見えますね。もし一度でも橋立を旅行した人なら、「あのとき見た風景とそっくりだ」と思われることでしょう。でも、つぶさに観察(かんさつ)すると、実景とは少し違(ちが)う箇所(かしょ)もあります。ひとつは、橋立の根もと付近(ふきん)の籠神社(このじんじゃ)から左の国分寺(こくぶんじ)までの町並(まちな)みがすごく長く引き伸(の)ばされていること。これは町並みの賑(にぎ)わいを演出(えんしゅつ)しようとする狙(ねら)いがあったのと、そこに描(か)き込(こ)みたいものが多かったからなのでしょう。ふたつめは、成相寺が建(た)つ山を極端(きょくたん)なまでに高く、大きくあらわしていることです。もし実景通りの山を描いたとしたなら、今、絵にうかがわれるようなスケール感が出せたかどうか。要(よう)するに、山水図としての出来映(できば)えを強く意識(いしき)しているんですね。また、そうしたスケール感を出すために、橋立を高所から見下ろすような構成(こうせい)を取っていることも見逃(みのが)してはならないでしょう。
雪舟が描くこの「天橋立図」は、本絵(ほんえ)(完成画(かんせいが))ではなく下絵(したえ)と考えられています。その理由として挙(あ)げられるのは、二十枚もの小紙を貼り合わせた粗末(そまつ)な料紙(りょうし)に描いていることなのですが、もうひとつだけ決定的(けっていてき)な根拠(こんきょ)を示(しめ)しておきましょう。なかなか見づらいかもしれませんが、空や山、海などに朱(しゅ)が点じられているのが確認(かくにん)できますか。もちろん、そんな場所に朱が入るのはまことに不可解(ふかかい)です。
実をいうと、この朱は籠神社や成相寺、智恩寺の建物に塗(ぬ)られた朱がくっついたものなんですね。つまり、朱が乾(かわ)ききらないうちに絵を真ん中から半分に折(お)り畳(たた)んだために、そうなってしまったというわけです。先に、下絵であることの決定的な根拠と述(の)べたゆえんです。
では、本絵は描(えが)かれたのでしょうか。この点については不明(ふめい)なことばかりなのですが、徳川将軍家(とくがわしょうぐんけ)に伝来(でんらい)し、のちに焼失(しょうしつ)したという言い伝(つた)えが残(のこ)されています。
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