- TOP
- 学ぶ・楽しむ
- おうちで学ぶ・楽しむ
- 博物館ディクショナリー
- 絵画
- 天神(てんじん)、海をわたる
天神(てんじん)、海をわたる
美術室 森 道彦
2022年02月15日
松の木の下に立ち、こちらをじっとみつめるこの男性(図1)、一体どこの国から来たのでしょう?するどい目に長いひげをたくわえた姿(すがた)は、特殊(とくしゅ)能力をもった中国の仙人(せんにん)のよう。頭にかぶる不思議な頭巾(ずきん)や服の感じも、どうも和服ではなさそうです。左肩(ひだりかた)からバッグのようなものを斜(なな)めがけにして、梅の枝をかかえていますが、これらの小道具は一体なんでしょうか?
この絵のタイトルは「渡唐天神像(ととうてんじんぞう)」。これは唐(とう)の地、つまり中国に渡(わた)った天神の像という意味で、天神は菅原道真(すがわらのみちざね)という今から1100年あまり前、平安(へいあん)時代前期に活躍(かつやく)した有名な政治家をさしています。歴史のマンガや教科書などでは、飛鳥(あすか)時代(7世紀)から日本に最新の中国文化をもたらしてきた遣唐使(けんとうし)を終わらせ、国風文化が盛(も)りあがるきっかけの一つをつくった人として説明されることの多い人です。つまり、日本の人なのですね。
子供(こども)のころから学問、作文、作詩にと天才ぶりを発揮(はっき)して神童(しんどう)ともてはやされた道真は、成長して政治家として活躍しましたが、政治の争いに敗れて大宰府(だざいふ)(現在の福岡県(ふくおかけん))に左遷(させん)され、失意のうちに亡(な)くなりました。死後、都では天災や関係者の死がつづき、道真のたたりと恐(おそ)れられ、彼(かれ)は神としてまつられることになります。これが「天神」で、菅原の苗字(みょうじ)をとって「菅公(かんこう)」とよばれることもあります。初めは恐ろしい神でしたが、学問や文芸を愛した道真の人がらにちなみ、じきに私(わたし)たちの今知るような、ありがたい神となりました。
ちなみに京都の道真の屋敷(やしき)の庭には梅の木があり、梅は九州にゆく道真を追って飛びさったと伝えられ、天神のトレードマークは梅の花となっています。物語によっては、松や桜も登場します。松は、梅が追ってきたのになぜお前は来ないと言われてあわてて追いかけてきた、桜は、道真が最後まで声をかけてくれなかったので悲しくて枯(か)れてしまったのだとか。それもあって、天神像には梅と松をそえるのが一般的(いっぱんてき)です。最初に見たとおり、「渡唐天神像」にも梅と松があり、この知識をふまえれば、描(えが)かれているのが日本の天神であることははっきりとわかりますね。
しかし、描かれている不思議なファッション、これはもとの天神の物語には出てこないものです。これは道真が亡くなり、天神が誕生(たんじょう)てさらに何百年かたった14世紀、禅(ぜん)のお坊(ぼう)さん(禅僧(ぜんそう)たちが考えた全く別のストーリーにもとづいています。禅は中国からもたらされ、鎌倉(かまくら)時代(13世紀)に本格的に日本に根づきますが、日本の禅僧たちが師匠(ししょう)とあおいだえらい中国人僧の一人に、無準師範(ぶじゅんしばん)という人がいました。日本の僧たちは、天神が夢の中で空を飛び、はるか時空を超(こ)えて無準和尚(ぶじゅんおしょう)に会いに行き、禅をマスターしたという新しい物語をつくります。これが「渡唐天神」です。当時の禅僧のなかには留学経験のある国際人が多く、国中でもっとも教養ゆたかで、文学を愛した人たちでもあったので、学問や文芸をつかさどる天神の力を深く信じました。道真の亡くなった九州が、朝鮮(ちょうせん)半島や中国に一番近い日本の海の玄関(げんかん)口であったのも、国際人であった禅僧たちの心をとらえたようです。「渡唐天神像」のまるで中国の仙人のような姿は、時空を超えながら夢と現実を行き来し、空まで飛んで大陸にわたるという摩訶不思議(まかふしぎ)な力をイメージしたものでしょう。肩からかけるバッグのようなものには、お坊さんが身につける袈裟(けさ)などが入っています。
歴史上の道真自身は、けっして中国にわたることはありませんでした。寛平(かんぴょう)6年(894)、彼は遣唐使の大使に任命されますが、当時の中国は内戦で混乱(こんらん)して渡航(とこう)は実現せず、道真のもとで遣唐使はついにその役目を終えることになります。しかし約500年後、物語と絵のなかで、道真は自身、全く思ってもみなかった形で中国にわたることになりました。不思議な「渡唐天神像」のすがたには、そんなはるか昔の人々の豊かな想像力と、海をへだてた日中の国際交流の深く、長い歴史が秘(ひ)められています。