美術室 狩野
1999年07月10日
18世紀の京都(きょうと)で活躍した「写生派(しゃせいは)」を紹介しましょう。動物や植物のすがたをありのままに描く「写生」ということ自体(じたい)は、古く鎌倉(かまくら)時代からわが国でも行われていたのですが、それは絵をかくための準備作業(じゅんびさぎょう)として画家がやっていたのであって、仕上がった作品にはその「写生」はあまり反映(はんえい)されることはなかったのです。
絵において「写生」ということがやかましくいわれるようになるのは、18世紀のなかば以降のことになります。それを引っ張って行ったのは、円山応挙(まるやまおうきょ)という画家でした。応挙は丹波(たんば)の国の亀山(かめやま:現在の京都府亀岡(かめおか)市)の穴太(あのう)という村の貧しい農家に生まれました。幼くして京都に出てきた応挙は、おもちゃ屋の丁稚(でっち)などをして絵の才能(さいのう)を伸ばし、古い伝統(でんとう)からぬけることのできない画家たちを尻目(しりめ)に、「写生画」という新しい絵を描いて、都(みやこ)の人気をほとんどひとり占(じ)めしたのです。
そのありさまは、『雨月物語(うげつものがたり)』という小説を書いたことで有名な上田秋成(うえだあきなり)が、
京都に円山応挙があらわれたために、京都中が絵といえば「写生」ということになってしまったことじゃった。
とある本に書いていることでも大いに想像することができます。
もちろん絵画の先進国(せんしんこく)である中国では、早くから「写生」が行われました。応挙も若いときにはその影響を強く受けたのですが、応挙のえらいところは、日本人がもっている心に合うような「写生画」を作りあげたところにあります。
応挙の「写生画」の新しさはどこにあったのでしょうか。
そのことは松尾芭蕉(まつおばしょう)を考えればわかりやすいかもしれません。芭蕉は応挙より半世紀以上前に活躍したひとですが、芭蕉が切りひらいた表現上の新しさは、絵では応挙によってようやく実現したのです。
古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音
この俳句(はいく:当時は発句(ほっく)と呼んでいました。俳句と呼ぶようになるのは、明治(めいじ)の正岡子規(まさおかしき)からです)を知らないひとはいないでしょう。このあまりにも有名な俳句を芭蕉が発表したとき、誰もが感心したわけではありませんでした。ことに和歌(わか)をよむ歌人(かじん)たちからは、この句はけちょんけちょんにいわれます。かれらは何といって非難(ひなん)したのでしょうか。それはこういうことでした。
蛙というものをよむ場合には、昔から「鳴く蛙」や「さわぐ蛙」というふうによむように昔から決まっているのに、「飛ぶ蛙」とよむ芭蕉はそのしきたりや伝統を知らない無学者(むがくもの)である。
こういって芭蕉を責(せ)めたのです。芭蕉は俳句というものの生命は「新(あたら)しみ」にある、といいます。蛙が鳴くことはもちろん知っているが、蛙が飛びこんだ情景を自分は見たのだからそうよんだのであって、飛びこんだ水の音が消えたあとのその静けさに深く感じるところがあったのだ、と。伝統よりも、その新しい感動の仕方のほうを重んじるのだと芭蕉は考えたのです。
おそらく円山応挙の「写生画」をにがにがしく思った人びとも沢山(たくさん)いたはずです。けれども応挙も、伝統にしばられていては、新しい絵の世界を切りひらくことはできないと思ったはずです。自分の目に見えるように絵を描くことが一番大事だと考えたのです。
応挙の切りひらいた絵の世界は、その後も受けつがれ、明治・大正(たいしょう)・昭和(しょうわ)の時代までその絵画の子孫(しそん)が続いたのです。
長沢芦雪(ながさわろせつ)は応挙の愛弟子(まなでし)ですが、師匠(ししょう)の「写生画」にやはりかれなりの「新しみ」を加えた作品を数多くのこしています。
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