美術室 狩野
2001年01月13日
桃山(ももやま)時代と聞いて、皆さんはどんなことを頭にうかべるでしょうか。たとえば、織田信長(おだのぶなが)とか豊臣秀吉(とよとみひでよし)、あるいは彼らの死後(しご)に政権(せいけん)を握(にぎ)り、永(なが)い安泰(あんたい)の時代の基礎(きそ)を築(きず)いた徳川家康(とくがわいえやす)など、武士(ぶし)たちの姿が目にうかぶのではないでしょうか。
この桃山時代は、そのように日本の国のかじ取(と)りを誰(だれ)がするかということで戦乱(せんらん)に明(あ)け暮(く)れた時代でもあったのですが、同時に、日本に新しい文化(ぶんか)が花開(はなひら)いた時代だったともいえるのです。
信長、そして彼が明智光秀(あけちみつひで)に暗殺(あんさつ)されてからは秀吉に仕(つか)えた狩野永徳(かのうえいとく)という絵師(えし)がいます。狩野家(け)は、永徳の曽祖父(そうそふ)にあたる正信(まさのぶ)、祖父(そふ)の元信(もとのぶ)などが室町(むろまち)の足利将軍(あしかがしょうぐん)の御用(ごよう)をつとめていましたが、足利将軍が滅(ほろ)びてのちも、永徳が信長や秀吉に仕(つか)えることによって、その流派(りゅうは)は強大(きょうだい)な力を温存(おんぞん)したのです。しかも、今にのこる「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」(宮内庁三の丸尚蔵館(くないちょうさんのまるしょうぞううかん))や「桧図屏風(ひのきずびょうぶ)」(東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん))などが示(しめ)す、荒々(あらあら)しくて雄大(ゆうだい)な永徳の画風(がふう)は、進取(しんしゅ)の気象(きしょう)に富(と)んだこの時代の気風(きふう)とぴったり合って、この時代の人びとに歓迎(かんげい)されたのでした。
けれども、この永徳的画風の流行(りゅうこう)に対して快(こころよ)く思わない人びともいたようです。その代表的(だいひょうてき)な人物(じんぶつ)が、豊臣政権でも重要な位置にあり、茶人(ちゃじん)としても有名な千利休(せんのりきゅう)でした。外面(がいめん)の派手(はで)さを極力排(きょくりょくはい)し、内面(ないめん)のゆたかさを重(おも)んじるわび茶を主導(しゅどう)した利休にとって、派手さを売り物にしているようにさえ見える永徳の画風は、正反対(せいはんたい)の美意識(びいしき)でした。そこで、利休は長谷川等伯(はせがわとうはく)という画家に白羽(しらは)の矢(や)を立てて、自分の美意識の代弁者(だいべんしゃ)に仕立(した)てあげようとします。等伯は、当時としては田舎(いなか)の能登(のと)に生まれ、30代の半(なか)ばごろに上京(じょうきょう)して、中国(ちゅうごく)の宋(そう)や元(げん)時代の水墨画(すいぼくが)を勉強していた画家でした。
等伯は利休の思いにこたえ、ついに日本水墨画の傑作中(けっさくちゅう)の傑作といわれるようになる「松林図屏風(しょうりんずびょうぶ)」を描(えが)きました。
永徳は、こうした出来事(できごと)に危機感(ききかん)を覚(おぼ)えます。狩野派の存続(そんぞく)すらあやういと彼は考えたようです。そうこうするうち、永徳は40代半ばという若さで亡(な)くなってしまいます。強い力で狩野派を引っ張っていた永徳の死によって、狩野派は混乱状態(こんらんじょうたい)におちいり、秀吉の長男(ちょうなん)の棄君(すてぎみ)が数(かぞ)え3歳(さい)で死んだために建(た)てられた祥雲禅寺(しょううんぜんじ)の障壁画(しょうへきが)の仕事も、長谷川派にとられてしまいます。ただ、智積院(ちしゃくいん)に今にのこる長谷川等伯の絵が永徳風であるのは、皮肉(ひにく)というほかありません。
等伯とは別に、狩野派と対抗(たいこう)し得(う)る絵を描いていたひととして、海北友松(かいほうゆうしょう)を挙(あ)げるべきでしょう。
友松は、もともと武士として生まれたひとでした。海北家は近江(おうみ)の浅井家(あさいけ)の家臣(かしん)でしたが、浅井長政(あさいながまさ)が信長に滅(ほろ)ぼされたとき、主君(しゅくん)とともに殉(じゅん)じたのです。友松は、たまたま京都(きょうと)の東福寺(とうふくじ)で喝食(かつじき:僧侶(そうりょ)の世話をする稚児(ちご))として暮(くら)らしていたため、難(なん)を逃(のが)れたというわけです。
友松は永徳に絵を学(まな)んだようです。永徳風の人物を描いた若描(わかが)きの屏風絵なども、現在のこっているので、そのことがわかります。
永徳の死後、友松は自分自身(じぶんじしん)の画風をつくりあげてゆきます。建仁寺(けんにんじ)の大方丈(だいほうじょう)に描いた「山水図(さんすいず)」「竹林七賢図(ちくりんしちけんず)」「琴棋書画図(きんきしょがず)」「雲龍図(うんりゅうず)」「花鳥図(かちょうず)」のぼう大な障壁画は、まさしく友松そのひとの世界をかたちづくり、「花卉図(かきず)」「三酸(さんさん)・寒山拾得図(かんざんじっとくず)」「琴棋書画図(きんきしょがず)」などの巨大(きょだい)な妙心寺(みょうしんじ)屏風も、他の画家の追随(ついづい)を許(ゆる)しません。
部分
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しかし、友松は死ぬまで海北家の再興(さいこう)を望(のぞ)んでいました。画家としてではなく、武士としての海北家を再興させることを夢見(ゆめみ)ながら、桃山という時代を生きつづけたひとだったのです。本意(ほんい)ではない友松の作品が、あれほど素晴(すば)らしい光を放(はな)っているのは、不思議(ふしぎ)といえば不思議ですね。
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