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祇園祭礼図屏風(ぎおんさいれいずびょうぶ)
美術室 狩野
1993年07月10日
古い石器(せっき)時代の昔から、お祭は私たち人間にはなくてはならないものでした。「人間」を定義する方法には色々とあり、「遊ぶ動物」とか「道具を使う動物」などとい われて来ましたが、これらは動物を深く観察することによって、人間以外にも「遊ぶ」行動をしたり「道具を使う」動物がいることがわかったので、今では否定されています。 この地球上において「お祭をする動物」は人間以外にはいないようです。「お祭」は、つまり、人間という動物を特徴づける行動だといえるでしょう。
お祭の形態にも色々ありますが、行列がつきものです。行列にも、歩いたり、走ったり、あるいは踊ったり、と様々なバリエーションがあります。 リオのカーニバルや郡上八幡(ぐじょうはちまん)の郡上踊(ぐじょうおど)りは、徹夜で踊りつづけることで有名です。
日本三代祭のひとつである京都の「祇園祭(ぎおんまつり)」は、行列する祭のなかでもっとも優雅で華麗なものということができるでしょう。 この祇園祭の様子を描いた屏風を「祇園祭礼図屏風(ぎおんさいれいずびょうぶ)」と呼ぶのですが、屏風のことをお話する前に、祇園祭それ自体のことを勉強しておきましょう。
祇園祭が始まったのは、西暦869年(日本の年号でいうと貞観(じょうがん)11年にあたる)のことといわれます。京都に朝廷が置かれてから、まだ100年もたっていない頃です。この年は、都に疫病が流行して多くの人が死んだり、苦しんでいました。昔の人は、流行り病が衛生状態の悪さなどからおこるというような科学的な考え方はできず、人間のせいで神様が怒っているに違いないとして、神様の怒りを鎮めなければならないと考えるのです。祇園祭りもそのために始まったのですが、祇園祭が祇園御霊会ともいわれるのはそうしたわけなのです。
貞観11年の最初のお祭では、66本の矛(ほこ)を立てました。これがのちに山(やま)や鉾(ほこ)に変化して、現在、私たちが見ることのできるものになって行ったのです。
祇園祭はその後、毎年おこなわれるようになりましたが、室町(むろまち)時代の中ごろにおこった応仁(おうにん)の乱(らん)のために、しばらく中止になっていました。乱後、京都の街が復興されるとともに、祇園祭を再興しようという気運が生まれてきました。再興された祇園祭は、それまでの祇園祭が公の行事の性格をもっていたのに対して、京都の繁栄をになっている商工業者たちのための祭へと変化して行きました。この人々を「町衆(まちしゅう)」といいますが、祇園祭は町衆の、町衆による、町衆のためのお祭になったのです。これは、応仁の乱によって、それまでただ身分が高いだけで威張っていた人たちの化けの皮がはがれてしまったことが、その理由と考えられます。
祇園祭は、こうして町衆の勢いの強さを示す象徴となって行ったのです。
この祇園祭を描いた祇園祭礼図屏風は、町衆たちの要望もあって数多く作られたに違いありませんが、現在のこっているものは意外に少ないようです。
京都国立博物館の祇園祭礼図屏風は、17世紀の前半、よく「寛永(かんえい)時代」と呼ばれるころに制作されたものです。後水尾天皇(ごみずのおてんのう)と徳川和子(とくがわかずこ)の結婚のあったころ、美術では本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や俵屋宗達(たわらやそうたつ)らが活躍していた時代にあたります。とても大事にされたとみえて、いま描いたのではと思われるほど美しく、屏風に惜しむことなく貼られた金箔も光り輝いており、制作当初の状態を私たちの眼の前に示しています。
私たちの先祖は、自分たちのお祭に対する誇りを、屏風絵という芸術のかたちにしてのこしてくれました。「その意気や良し」と思わずにいられません。町衆たちの金銭的なゆたかさだけではなく、心のゆたかさをも感じることができるでしょう。