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黄梅院の襖絵(おうばいいんのふすまえ)
美術室 山本
1993年12月11日
現在ではあまり行なわれなくなってしまいましたが、昔は襖(ふすま)にたくさんの絵が描かれました。描かれる題材も山水(風景)画(さんすいふうけいが)、人物画(じんぶつが)、花鳥画(かちょうが)、走獣(動物)画(そうじゅうどうぶつが)などさまざまで、しかもそれらは部屋ごとに描き分けられていました。ですから、華やかで美しい花鳥画の部屋の襖を開けてヒョイと隣りの部屋をのぞくと、そこはガラリと雰囲気の違う雪景色の山水画の世界だったりするわけです。いまの私たちが家の中で絵と触れ合うとすれば、せいぜい壁にかかった小さな絵くらいのものですが、昔は部屋全体、建物全体でいろいろな絵を味わう(鑑賞する)ことができたのです。すごくぜいたくなくらしだったとは思いませんか。
しかし、こういった襖絵も古い時代のものはあまり数多くはのこっていません。屏風や掛軸(かけじく)のように、簡単にたたんだり、まるめたりできないので、火事が起ったりすると、持ち出しにてまどり、たいていは建物といっしょに焼けてしまうからです。また、いつも建物の中に゛出しっ放し″にしてあるのも良くありません。襖絵の紙には掛軸のそれよりもやや厚めの丈夫なものが使われていますが、それでも長く日光があたったり、温度や湿度が大きく変化すると、すぐにボロボロの状態になってしまいます。こうしたことを考えると、少ないながらも室町(むろまち)時代や桃山(ももやま)時代など、いまから4、5百年も前に描かれた襖絵がのこされていることは、ほとんど“奇跡”に近いといってよいのかもしれません。別の見方をすると、それだけ大切に扱われてきたということなのでしょう。
ここに取り上げる襖絵も桃山時代のもので、京都の大徳寺(だいとくじ)という寺の中にある、黄梅院(おうばいいん)という建物に描かれました。絵の筆者は、雲谷等顔(うんこくとうがん)(1547~1618)という人です。
この人は、そのころ中国地方一帯をおさめていた毛利家(もうりけ)の家来でしたが、文禄(ぶんろく)2年(1593)に主君の毛利輝元(もうりてるもと)(元就(もとなり)の孫)から、雪舟(せっしゅう)が住んでいた雲谷庵(うんこくあん)という建物を授けられました。雪舟とは、涙でネズミの絵を描いたという話で有名な、あの“画聖(がせい)”雪舟です。雪舟(1420~1506?)は16世紀の初めごろには亡くなっているので、等顔と直接の関係はないのですが、等顔は雲谷庵に住むことによって偉大な雪舟の“後継ぎ”になったのです。もちろん、「雲谷」という彼の名はその建物にちなんで付けられたものです。
黄梅院の襖絵は全部で44面もあり、たいへん苦労して描かれたことが想像されます。その出来映えはじつにみごとなもので、等身大に近い大きさであらわされた人物図(「竹林七賢図(ちくりんしちけんず)」)は観る人を圧倒する迫力と力強さにあふれています。
かと思えば、山水図の方はおだやかで静かな雰囲気が満ちており、どこか心をなごませ、落ち着かせてくれるところがあります。
どちらの襖絵も、雪舟の後継者の名に恥じない傑作といってよいでしょう。
まえにも言いましたが、昔の人たちはこのようにまったく雰囲気の異なる絵を部屋ごとに描かせ、その中に身を置いて、じっくりと絵の良さを味わっていたのです。もう一度襖絵をながめてみてください。これまで気づかなかったものが、もしかするとみえてくるかもしれませんよ。