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粟津湖底遺跡の貝塚の断面剥ぎ取り(あわずこていいせきのかいづかのだんめんはぎとり)
考古室 難波洋三
1999年06月12日
京都国立博物館の館蔵品のなかには、長さ約4m高さ約1mの壁面に貝殻(かいがら)や土器(どき)や黒くなった木の実などが貼(は)りついた、奇妙(きみょう)なものがあります。これは、縄文(じょうもん)時代の貝塚を発掘し、その断面を強力な接着剤で剥ぎ取ったものです。今回はこれについて説明しましょう。
貝塚とは、わかりやすく言えば、縄文時代の人々のゴミ捨て場の跡の一種です。ゴミのほとんどは土になってしまいますが、くさりにくい貝殻が多量に捨てられ、遺跡となったのが貝塚です。貝塚のほとんどは海の近くにありますが、大きな湖の周辺に淡水産(たんすいさん)の貝の貝塚が形成(けいせい)されることもあります。琵琶湖(びわこ)でも、その周辺にシジミの貝塚がいくつかみつかっており、この貝塚の断面の剥ぎ取りは、このような貝塚のひとつ、滋賀県大津市(しがけんおおつし)粟津湖底遺跡(あわずこていいせき)のものです。この貝塚は、今は琵琶湖の南端の湖の底にありますが、これが形成された縄文時代中期はじめ(約5千年前)には、琵琶湖の水位(すいい)が今よりも低かったため、その湖岸(こがん)に立地(りっち)していました。
それでは、この貝塚の断面の剥ぎ取りから何がわかるでしょうか。まず、貝殻のほとんどが私たちが味噌汁(みそしる)などにいれるシジミのそれに比べるとたいへん大きく、アサリくらいの大きさをしていることに気がつくでしょう。湖畔(こはん)でとれるシジミには、大きなものだけでなく充分成長していない小さなものも、当然あったはずです。しかし、小さなものまでとってしまうと、そのうち貝はいなくなってしまいます。縄文人は、資源保護(しげんほご)のため、小さな貝はできるだけとらないようにしていたと考えられます。
これらの貝は、どの季節に採取(さいしゅ)されたのでしょうか。貝の殻の断面には毎日の成長線(せいちょうせん)が木の年輪(ねんりん)のようにはいっており、これを観察すれば、一年のいつ頃にその貝が採取されたかがわかります。この成長線の分析(ぶんせき)によって、縄文人が琵琶湖の水温の高い7月から9月にシジミをさかんに採取したこと、わずかですが冬にも採取したことがわかりました。
この貝塚段面をもっとよく観察すると、貝層(かいそう)と貝層の間に、あまり厚くない黒っぽい土のような層が挟(はさ)まっているのがみえます。これは、トチの実やドングリの皮です。この黒い層ができたのは、これらの木の実がとれる晩秋(ばんしゅう)を中心とする季節であったと考えられます。すなわち、黒い層と貝層が1組で1年分になるわけです。この繰り返しの数をかぞえれば、この貝塚が何年かけてできあがったのかわかります。
採取した貝塚の堆積物(たいせきぶつ)を分析した結果、粟津湖底貝塚全体で約673万個体のシジミが含まれていること、これだけの数のシジミからは肉が約6730キログラム採取できたこと、この肉から約336万キロカロリーのエネルギーを得たことがわかりました。そして、同じような分析がこの貝塚から出土したほかの種類の動物の骨や木の実の皮についてもなされた結果、粟津の縄文人はカロりーの約17%をシジミから得たことがわかりました。これに対し、トチの実から得たカロリーは全体の約39%で、シジミのそれの倍以上にもなっています。貝塚の主役であるシジミより脇役(わきやく)のトチの実のほうが、じつは粟津の縄文人にとって重要な食料であったようです。
さて、私たちの時代は、このような貝塚にかわって巨大な「不燃(ふねん)ゴミ塚(づか)」や「産業廃棄物塚(さんぎょうはいきぶつづか)」を沿岸部(えんがんぶ)や山間部(さんかんぶ)に残しつつあります。未来の博物館には、今回紹介した貝塚の断面のように、これらの遺跡の断面が展示されることでしょう。そしてそのかたわらには、出土品と環境破壊(かんきょうはかい)の関係、このような遺跡を残した20世紀の人々の愚(おろ)かな欲望(よくぼう)について述べた解説パネルが置かれるにちがいありません。