考古室 宮川禎一
2000年08月12日
坂本龍馬は今から160年以上も昔、江戸(えど)時代の天保(てんぽう)6年(1835年)に土佐(とさ)、現在の高知(こうち)市で生まれました。坂本家は郷士(ごうし)と呼ばれる身分(みぶん)の低い武士(ぶし)の家でしたが、金銭的(きんせんてき)には恵まれた家庭でした。龍馬は5人兄弟の末っ子で12才の時にお母さんを亡くし、お姉(ねえ)さんの乙女(おとめ)さんに面倒(めんどう)をみてもらいました。小さい頃は泣き虫(なきむし)でひ弱(よわ)だった性格(せいかく)は剣道(けんどう)の道場(どうじょう)に通(かよ)うようになって強くなっていったといいます。19才の春には江戸へ行き大きな剣術(けんじゅつ)道場に入りました。この年の6月(嘉永(かえい)6年、1853年)、4隻(せき)のアメリカ軍艦(ぐんかん:黒船(くろふね))が江戸湾(わん)にやって来て、外国との交渉(こうしょう)を閉(と)ざしていた日本に開国(かいこく)を要求(ようきゅう)しました。その混乱(こんらん)の様子(ようす)を龍馬は実地(じっち)に体験(たいけん)したのですが、この黒船さわぎによって日本という国のありかたに疑問(ぎもん)をいだくようになったといわれています。
高知に帰った龍馬は土佐勤王党(きんのうとう)というグループに入りましたが、文久(ぶんきゅう)2年(1862)に土佐藩(はん)を飛び出しました。そして江戸へ行き、幕府(ばくふ)の軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)であった勝海舟(かつかいしゅう)という人の弟子(でし)になって海軍(かいぐん)を創設(そうせつ)するための仕事を積極的(せっきょくてき)に進めました。海軍を強くして外国の侵略(しんりゃく)から日本を守ろうと考えたのです。
元治元年(がんじがんねん:1864)に幕府によって神戸(こうべ)にあった海軍練習所(れんしゅうじょ)は閉鎖(へいさ)されたため、龍馬と彼の仲間たちは薩摩(さつま)の西郷隆盛(さいごうたかもり)らの援助(えんじょ)で長崎(ながさき)に海運業(かいうんぎょう)を中心とする商社(しょうしゃ)をつくりました。その一方で薩摩藩(鹿児島(かごしま))と長州藩(ちょうしゅうはん:山口(やまぐち))という2つの有力な藩に同盟(どうめい)を結(むす)ばせて古い幕府や藩の体制(たいせい)を打(う)ち壊(こわ)す原動力(げんどうりょく)をつくろうと説得(せっとく)をかさねました。この薩長同盟(さっちょうどうめい)は慶応(けいおう)2年(1866)1月に龍馬が立(た)ち会(あ)ったうえで結ばれました。さらに慶応3年(1867)には土佐藩の上層部(じょうそうぶ)を動かして幕府に対して政権(せいけん)を京都(きょうと)の朝廷(ちょうてい)に返上(へんじょう)するように働きかけ、10月13日には大政奉還(たいせいほうかん)を成功(せいこう)させました。「薩長同盟」と「大政奉還」という2つの偉業(いぎょう)は龍馬の働きかけがあってのことでした。
大政奉還ののちも新政府(しんせいふ)をつくるために力をつくしていた龍馬でしたが、慶応3年11月15日夜に京都河原町蛸薬師(かわらまちたこやくし)下ルの近江屋(おうみや)という醤油屋(しょうゆや)の二階で暗殺団(あんさつだん)によって殺(ころ)されてしまいました。明治維新(めいじいしん)の基礎(きそ)をつくりながら新しい時代をみることなく33歳の若さで亡(な)くなったのです。どれほど無念(むねん)な気持ちだったでしょう?
坂本龍馬という人がいったいどんな人だったのかは、現在も残っている沢山(たくさん)の手紙によって知ることができます。特に家族や親類・奥さんなどにあてた手紙には彼の喜(よろこ)びや悲(かな)しみ・悩(なや)みなどが隠(かく)さず書かれています。一番仲(なか)のよかった乙女姉さんへあてて、勝海舟先生の弟子になって海軍創設に奔走(ほんそう)する喜びをつづった手紙や、龍馬のお嫁(よめ)さんとなる人(おりょう)を実家(じっか)に紹介(しょうかい)する手紙、さらにそのお嫁さんと鹿児島の霧島山(きりしまやま)へ新婚旅行(しんこんりょこう)へいった様子をイラスト入りで書いた手紙(写真1)などを送っており、龍馬という人があけっぴろげで楽しい人であったことがよくわかります。
坂本龍馬は剣の強い豪傑(ごうけつ)のように言われることが多いのですが、じつは家族想(おも)いの細(こま)やかな愛情(あいじょう)の持ち主(もちぬし)であったことが手紙からわかります。また、長い長い手紙が多いことからけっこうおしゃべりな人であったろうことも想像(そうぞう)されますし、その自由な文章からは決(き)まり事(ごと)にこだわらない性格であったこともうかがえます。龍馬の友人の桂小五郎(かつらこごろう)という人から来た手紙には「あなた(龍馬)は心が公明(こうめい)で度量(どりょう)が寛大(かんだい)なのはよいのだが、用心(ようじん)するということが少しもないので心配です。どうかどうか御用心ください」という意味の文章が書かれています。
博物館には龍馬が近江屋で斬殺(ざんさつ)されたときに飛(と)び散(ち)った血痕(けっこん)の残る掛軸(かけじく)(写真2)や屏風(びょうぶ)が伝(つた)わっており、その時の様子を生々(なまなま)しく伝えています。
龍馬の生涯(しょうがい)は司馬遼太郎(しばりょうたろう)の小説「竜馬がゆく」や小山(こやま)ゆうの漫画「お〜い!竜馬」などに詳(くわ)しく描(えが)かれています。夏休みなどに挑戦(ちょうせん)してみてはいかがでしょうか。
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