考古室 宮川禎一
2002年06月08日
「この世(よ)をばわが世とぞおもふ望月(もちづき)の欠(か)けたることも無(な)しとおもへば」という和歌(わか)を日本史(にほんし)の教科書(きょうかしょ)で習(なら)ったことがあるでしょう。この満月(まんげつ)の歌(うた)を宴座(えんざ)の者(もの)に唱和(しょうわ)させて悦(えつ)に入(い)っていたのは平安(へいあん)時代を代表(だいひょう)する貴族(きぞく)の藤原道長(ふじわらみちなが)でした。道長は長女彰子(ちょうじょしょうし)を一条天皇(いちじょうてんのう)の妃(きさき)とし、彼女(かのじょ)の生(う)んだ皇子(おうじ)を後一条天皇(こいちじょうてんのう)に即位(そくい)させて、天皇の祖父(そふ)として絶大(ぜつだい)な権力(けんりょく)をふるいました。彰子の家庭教師(かていきょうし)とするために「源氏物語(げんじものがたり)」の著者(ちょしゃ)として名(な)をあげていた紫式部(むらさきしきぶ)をスカウトしてきたのも道長なのです。道長は平安時代半(なか)ば、西暦(せいれき)966年に生まれ1027年に没(ぼっ)しました。そんな昔(むかし)の人のことがなぜわかっているのでしょうか?それは同じ時代の貴族や女性(じょせい)の日記(にっき)、自筆(じひつ)の日記(御堂関白記(みどうかんぱくき))、「大鏡(おおかがみ)」のような物語などに、彼(かれ)のひととなりや行動(こうどう)がくわしく書(か)き残(のこ)されているからです。それらによると藤原道長は大胆(だいたん)で実行力(じっこうりょく)のある人物(じんぶつ)であり、なおかつ運(うん)の良(よ)い人でもあったようです。政敵(せいてき)を追(お)い落(お)とすことさえ平気(へいき)でしたが、一方(いっぽう)で信仰心(しんこうしん)のあつい人でもありました。
ここでは藤原道長の残(のこ)した考古遺物(こうこいぶつ)に注目(ちゅうもく)してみましょう。写真の筒(つつ)(写真1)は銅(どう)でできたもので高さ36.4センチ。表面(ひょうめん)には金(きん)があつく塗(ぬ)られ、たがねで500字余(じあま)りの漢字(かんじ)が刻(きざ)まれています。蓋(ふた)はちょうどお茶筒(ちゃづつ)のようにすっぽりと被(かぶ)るようになっています。表面の文字(銘文(めいぶん)と呼(よ)びます)は縦書(たてが)きで、とても上手(じょうず)な書体(しょたい)でこの筒が何(なに)であるかを記(しる)しています。この筒は内部(ないぶ)に道長自身(じしん)が書き写(うつ)したお経(きょう)を納(おさ)めるために作(つく)らせたもので、一般的に「経筒(きょうづつ)」と呼(よ)ばれるものです。そしてこの経筒は日本で最(もっと)も古(ふる)いものなのです。
銘文は「南<せん☆月+玽☆>部州大日本国左大臣正二位藤原朝臣道長(なんせんぶしゅうだいにほんこくさだいじんしょうにいふじわらあそんみちなが〜」で始(はじ)まっていて、この経筒を作(つく)る経緯(けいい)やその意味(いみ)、お経の内容(ないよう)、金峯山(きんぷせん)に登(のぼ)って埋(う)めることなどがこと細(こま)かく記されています。
そして最後(さいご)に埋めた日付(ひづけ)が「寛弘(かんこう)四年八月十一日」と記されています。この年は西暦1007年のことになりますので、道長41歳(さい)の時、今からほぼ1000年前の出来事(できごと)になります。この金峯山でお経を埋める様子(ようす)は御堂関白記という彼の日記にも記されていて、ほぼ正確(せいかく)に知(し)ることができます。
道長がこの経筒を埋めた「金峯山」は現在(げんざい)の奈良県吉野(ならけんよしの)の奥(おく)、大峰山山上ヶ岳(おおみねさんさんじょうがたけ)の頂上(ちょうじょう)にあたります。標高(ひょうこう)は1714m。現在でもとても険(けわ)しい山道(やまみち)です。登山靴(とざんぐつ)のような用具(ようぐ)も充分(じゅうぶん)でない時代に道長様御一行(さまごいっこう)はどうやって登ったのか、にわかには信(しん)じがたいような険(けわ)しさなのです。この文章(ぶんしょう)を書いている私(わたし)も一度(いちど)だけ山上ヶ岳に登ったことがありますが、足腰(あしこし)がよれよれになってしまうほどの険しい道のりでした。しかし道長の日記にはそのような苦労話(くろうばなし)は一切(いっさい)書かれていません。よほど強(つよ)い人だったのでしょうか。
山上ヶ岳は奈良時代から信仰をあつめる聖(せい)なる山でした。現在もなお修験道(しゅげんどう)の行場(ぎょうば)として多(おお)くの参拝者(さんぱいしゃ)を集(あつ)めています。道長が経筒を埋めた翌年(よくねん)の寛弘(かんこう)五年には娘(むすめ)彰子に皇子が誕生(たんじょう)しました。世間(せけん)の人々(ひとびと)は「金峯山の御霊験(ごれいげん)はあらたかだ」とうわさしたと記録(きろく)されています。経筒そのものは江戸(えど)時代の元禄(げんろく)四年に山上本堂(ほんどう)の改築工事(かいちくこうじ)に伴(ともな)って他(ほか)の経箱(きょうばこ)などとともに出土(しゅつど)し、現在は京都国立博物館(きょうとこくりつはくぶつかん)でお預(あず)かりしています。
藤原道長がはたした業績(ぎょうせき)のひとつにこの経筒の埋納(まいのう)をあげてもよいでしょう。道長がお経を地中(ちちゅう)に埋めることを始めたことにより、それにならうかたちで、日本の各地(かくち)に経塚(きょうづか)が営(いとな)まれるようになっていったからです。京都市(きょうとし)の北部(ほくぶ)、鞍馬寺(くらまでら)経塚や花背別所(はなせべっしょ)経塚などは12世紀に築(きず)かれたものなので、道長の金峯山経塚からは100〜150年ほどは新(あたら)しい時期(じき)の造営(ぞうえい)ということができます。
この金色に輝く経筒は一千年(いっせんねん)の時(とき)を超(こ)えて私たちに「藤原道長」という人物(じんぶつ)が確(たし)かに存在(そんざい)したことを知(し)らせてくれるとても貴重(きつよう)な遺物(いぶつ)なのです。
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