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百万塔とは?(ひゃくまんとうとは?)
考古室 森郁夫
1992年12月12日
「木造(もくぞう)百万塔」を見たことがありますか。それは「木で造った百万塔」です。
小さなものなのに、なぜ「作(つく)った」のではなくて「造(つく)った」という文字を使うのでしょう。ふつう、塔というのは大きな建築物ですね。それでこの文字を使っているのです。
この塔はなぜ「百万塔」という名前で呼ばれているのでしょう。三重の塔、五重の塔というものを見たことがあるでしょう。屋根が三重や五重になっている、その姿からそのように呼ばれます。では、「百万塔」は?
じつは、次の写真のような塔が百万個つくられたのです。
それは奈良時代のことでした。それで「百万塔」と呼ばれているのです。
奈良時代は今から1200年以上も昔のことです。機械はありません。ちょっとした道具しかありませんでした。当時の職人さんたちは、さぞ大変だったことでしょう。つくっている途中で割れてしまうものもありました。でも、それをていねいに削りなおして、うるしをのりとしてつないでいます。出来上がったものには、上から「ごふん」という塗料を塗ってしまいますので目で見てもわかりませんが、レントゲン写真をとりますと、つないだようすがよくわかります。
さて、この「百万塔」は屋根が三重ですね。そしてその上にビンのふたのような「相輪(そうりん)」と呼ぶ飾りがあります。高さは約20センチあります。塔の中をくりぬいてあります。その中に巻物が入っていますね。これはお経の一部で「陀羅尼(だらに)」といいます。
世界で一番古い印刷物ですよ。一つ一つの塔にこのお経を入れました。ですから、塔も百万、お経も百万つくられました。気の遠くなるような仕事と思いませんか。
では、何のためにこのような塔がつくられたのでしょう。奈良時代の天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(764)9月に、太政大臣藤原仲麻呂(だじょうだいじんふじわらのなかまろ)という人が反乱を起こしました。この反乱は一週間ほどでおさまりましたが、その後すぐに天皇になった称徳(しょうとく)天皇は、再びこのような反乱が起こらないようにとの願いをこめて、木の塔を百万個つくることを決めたのです。そして、1万個ごとに七車の塔(高さ約50センチ)を100個作り、10万個ごとに十三重塔(高さ約60センチ)を10個つくりました。
それを1万節塔(せっとう)、10万節塔と呼んでいます。
この仕事がいつから始められたのかはっきりしませんが、多くの「百万塔」につくった年月日が記されています。それによりますと、神護景雲(じんごけいうん)年間(767〜769)につくられたものが多いようです。宝亀(ほうき)元年(770)4月にこの仕事に従事していた人たちにほうびが与えられていますので、約5年間でつくってしまったことになります。今、「百万塔」がどんなふうにしてつくられたのか、調査が進められていますが、どうも、ほとんど休みなしで作業が行われていたようです。
こうしてつくられた「百万塔」は、当時の大きなお寺であった10か寺に配られました。それらは奈良の大安寺(だいあんじ)、元興寺(がんこうじ)、東大寺(とうだいじ)、西大寺(さいだいじ)、薬師寺(やくしじ)、興福寺(こうふくじ)、法隆寺(ほうりゅうじ)、川原寺(かわはらでら)、大阪の四天王寺(してんのうじ)、滋賀の崇福寺(すうふくじ)です。しかし、今お寺に残っているのは法隆寺だけになってしまいました。法隆寺には、約4万3千個が保存されています。
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