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琉球とアイヌの染織(りゅうきゅうとアイヌのせんしょく)
工芸室 河上
1996年08月10日
日本列島は、アジア大陸の東縁に沿うようにして北海道(ほっかいどう)から沖縄(おきなわ)まで細長くのびています。北の北海道と南の沖縄では、気候も違えば、文化も異なります。とくに衣服は、その土地々々によって、素材やかたち、文様などに違(ちが)いが生じます。北方のアイヌ民族の衣服と南海の島々で育まれた琉球(りゅうきゅう)の衣服、日本列島の北と南、それぞれの衣服を彩る織と染について見ていきましょう。
紅型(びんがた)
まずは沖縄の染織を見ましょう。
南海に浮かぶ沖縄は、かつて琉球王国を築(きず)き、中国や朝鮮(ちょうせん)、日本、さらに東南アジアの諸国と交易(こうえき)して、独自の文化を生み出しました。その琉球を代表する染織が紅型(びんがた)と芭蕉布(ばしょうふ)です。
紅型は琉球独自の染物で、今も沖縄の伝統工芸として受け継がれています。赤、黄、青、緑など彩り鮮やかな文様を、型紙(かたがみ)を使って糊(のり)を置く「型染(かたぞめ)」や、袋に入れた糊を絞(しぼ)り出すようにして布に直接、図柄を描く「筒描(つつがき)」の技法(ぎほう)で染めます。型染にしても筒描にしても、糊は防染(ぼうせん、色が染まらないようにする)のために置きます。ですから、糊を置いた部分以外を染めるのです。何色もの色を数回にわけて差し、最後に地の色を染めます。。
紅型はもともと特権階級(とっけんかいきゅう)の染物でした。王族や士族が衣服にもちい、あるいは中国からの使者を迎えたり、徳川幕府への謁見(えっけん)の際の舞衣装(まいいしょう)にしたのです。おもしろいのは、紅型の文様です。桜や松、藤など日本的なモチーフが多いことに気づきます。南国的な紅型のなかにも文化の交流がみてとれます。
芭蕉布(ばしょうふ)
芭蕉(ばしょう)というと馴染(なじ)みがないかも知れませんが、バナナの木といえば身近に感じるでしょう。もっともバナナの木は実芭蕉(みばしょう)で、芭蕉布の原料となるのは糸芭蕉(いとばしょう)ですから、厳密(げんみつ)には違います。糸芭蕉は高さが2メートルほどで、世界一大きな草といわれています。この糸芭蕉から一本一本の繊維(せんい)を採りだして糸にして、織りあげたのが芭蕉布です。風通しがよく、サラリとした肌ざわりが好まれて古くから夏の衣料に用いられました。かつては琉球王朝への貢納品(こうのうひん)として無地の芭蕉布や縞(しま)芭蕉、絣(かすり)芭蕉などが沖縄全域で織られ、王侯から庶民まで広く親しまれたのですが、いまは沖縄本島の喜如嘉(きじょか)でしか織られない高級品となってしまいました。
アイヌの衣装
北のアイヌの人びとも独自の衣文化(いぶんか)を築きました。その代表とも言えるのがアットゥシです。
北海道に自生するオヒョウの木の樹皮をはぎとり、水に浸(ひた)して柔らかくし、さらに日にさらして、繊維を細かく裂(さ)いて糸をつくり、機(はた)にかけて織りあげると、樹皮の茶色がのこるゴワゴワとした風合いの布ができます。この布で仕立てた衣服がアットゥシです。
日常に着たものには、あまり飾りを施しませんでしたが、晴れ着には背や袖口(そでぐち)に紺や黒の布をアップリケしたり、さらにが連続したような独得の文様を刺繍(ししゅう)しました。
この文様は悪霊(あくりょう)がとりつかないことを願った魔除(まよ)けです。アットゥシだけでなく、木綿(もめん)の古裂(こぎれ)で仕立てたルウンペ(木綿切伏縫取衣〈もめんきりふせぬいとりい〉)や白木綿(しろもめん)を切り抜いたカパラミプ(木綿白布切伏衣〈もめんはくふきりふせい〉)にも施されました。
文様を縫ったり、刺繍するのは女の仕事でした。女の子が祖母や母から教えられて代々伝えられました。アイヌの女たちは、祈りをこめながら夫や子どもたちの衣服をつくったのです。