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佐野長寛(さのちょうかん)
工芸室 灰野
1998年06月13日
江戸(えど)時代終りの京都(きょうと)に一人の工人(こうじん)がいました。その名を佐野長寛(さのちょうかん)といいます。自(みず)から漆匠(しっしょう)と称(しょう)して、自分の作品には絶対の自信をもっていた名人といえるでしょう。
こんな逸話(いつわ)が伝えられています。
天保(てんぽう)6年(長寛40歳の頃)、今津屋(いまずや)某家で祝い事のあることを聞いた長寛は吸物椀(すいものわん)を造って贈りました。大変悦(よろこ)んだ今津屋さんはさっそくこの椀に吸物を盛って、祝の客の前に並べたのですが、いざ飲もうとすると蓋(ふた)がとれません。いかにも不思議(ふしぎ)に思った今津屋さんが長寛に「どうしてなのでしょうか」と問いますと、「いや、これはうかつな事をしてしまったわい。わしも老(おい)たかなあ」と大いに笑って、蓋に錐(きり)で小さな穴をあけて、空気を通して蓋をあけたというのです。この時一夜もたった中の吸物はまだ温(あた)たかかったという話です。あまりに身(み)と蓋をきっちり造りすぎたために、こんな事態になったのです。穴を元のように塗り直し、今津屋さんに渡し、和歌(わか)を一首(いっしゅ)そえたといいます。
「我が老の拙(つたな)さ業(わざ)も、後の世にまた顕(あら)はるる時やあらなん」
自分の拙い作品も、いずれ後世、名人の作品であるといわれるのではなかろうか。という意味の歌でしょう。大変な自信です。事実、長寛の没後(ぼつご)、明治(めいじ)19年この椀が競市(せりいち)に出て超高価な値がついたということが新聞記事に載(の)ったほどなのです。
しかし、長寛ははじめから名人であったわけではありません。寛政(かんせい)6年(1794)、長寛は漆器問屋長浜屋治兵衛(しっきとんやながはまやじへい)の次男として京都新町三条(しんまちさんじょう)に生れました。治助(じすけ)と称され、子供の頃から頭がよく、読み書きを習い、和歌をよくよんだといわれています。21歳の時に父がなくなり、その職業をつぐことになりましたが、まだまだ勉強不足であることを知って、修業の旅に出たといいます。日本全国の漆器産地を廻(まわ)ってその技術を学び、また大名(だいみょう)・富豪(ふごう)をたずね歩き、その秘蔵(ひぞう)の名品をみせてもらって、自分の美術品に対する鑑(み)る眼を高めたということです。この旅は十年も続いたといいます。
京都に帰った長寛は家にこもり、髪(かみ)や鬚(ひげ)をのばしほうだいにし、粗まつな衣を着て、常に新しい意匠(いしょう)、それにあった技法(ぎほう)で自分の作品を造り続けました。そして、これらの作品はことごとく優品であったといわれています。それを求めるお金持ちも大変多くいたということです。しかし、自分がなっとくいかない作品は、いくらお金を積まれても決して造らなかったということです。名人はある種の変人であったともいえそうですね。
さて、この写真の作品は長寛の優品の一つで、京都国立博物館の所蔵です。藤原忠一郎という長寛の作品を愛した人が寄贈して下さったものです。
この食籠(じきろう:食べものを入れて食前に出す器)を一見して、これは日本の器だろうかと思われる諸君(しょくん)もいることでしょう。それはそのはずです。作者長寛がその意図の下に製作しているからです。中国明(ちゅうごくみん)時代(15世紀)頃の存清(ぞんせい)という技法を日本の蒔絵(まきえ)と漆絵(うるしえ)で似せて造っているのです。また、この意匠も中国風のものを、日本の江戸時代の人の好みにあうように長寛がアレンジしているのです。龍(りゅう)・鳳凰(ほうおう)ともに想像上の霊獣鳥(れいじゅうちょう)ですが、中国風にいかめしくはなく、ある意味ではユーモラスに描いているではありませんか。さらに、器の中には「富・貴」の文字が配されています。これも中国でよく用いられる吉祥(きっしょう)の文様なのです。
また、蓋の中央には「嘉永歳製(かえいねんせい)」とあり、嘉永年間(1848~54)に製作されたことがわかるようにしてあります。
身底には「長寛造」と作者の名前も記しています。この製作年と作者名を記すことも中国工芸品を模したものです。因(ちなみ)に嘉永6年(1853)はペリー提督(ていとく)が米艦隊(べいかんたい)を率(ひき)いて浦賀(うらが)に来航(らいこう)した年です。もうすぐ明治維新(めいじいしん)という時代の作品ですね。
長寛を名人、変人とも書きましたが、大徳寺(だいとくじ)で禅(ぜん)を修め、名陶工と知られる永楽保全(えいらくほぜん)と親友であり、大塩平八郎(おおしおへいはちろう)を尊敬した、当時の文化を吸収した教養人の一人でもあったのです。
江戸時代の工人にはこのような人は少なくなかったのです。