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蒔絵師 永田友治(まきえし ながたゆうじ)
工芸室 灰野
1996年12月14日
君たちは蒔絵師という職業を知っているだろうか。おそらく知らないでしょう。今日の日本にはほんの一握(ひとにぎ)りの人々しかいなくなったからです。
しかし江戸(えど)時代の我が国には蒔絵師と呼ばれる職人がたくさんいたのです。蒔絵師とは、絵師(えし、画家)や仏師(ぶっし、彫刻家)などと同じく、蒔絵という装飾技術(そうしょくぎじゅつ)をもって、生活の諸道具を美しく彩(いろど)った人々(工芸家〈こうげいか〉)なのです。
では、いったい蒔絵とはどんな装飾技法なのでしょうか。それにはまず漆器(しっき)というものがわからなければなりません。漆器とは木で作った器(うつわ)に漆(うるし)の樹液(じゅえき)を塗(ぬ)ったものをいいます。この漆器には遠く縄文(じょうもん)時代の人々も用いた古い歴史があります。この樹液を器に塗って乾かすと、器は非常に堅く強くなると同時に、大変その表面はなめらかな艶(つや)が出ます。日本人はこの漆器をすごく好もしいものと見たのです。
そして、この漆器を好んだ我々の祖先はこの上に金や銀の粉を蒔(ま)きつけて装飾することを考えだしたのです。漆の樹液のもう一つの重要な特長、すごい接着力(せっちゃくりょく)に眼をつけたのです。即ち、この液で絵や文様を描き、その上から金や銀の粉を蒔いて付着(ふちゃく)させて装飾する。これが蒔絵という技術なのです。平安(へいあん)時代にこの技法は確立(かくりつ)されたといわれます。そして大切な仏様や神様の諸道具や、公家(くげ)や武家の身の回りの品々にこの装飾が施されたのです。
江戸時代には蒔絵の品々は裕福(ゆうふく)な町人の生活にもとり入れられ広く人々にも知られるようになったのです。そして、江戸を中心に町の蒔絵師たちがたくさん輩出(はいしゅつ)したのです。
この永田友治という蒔絵師もそのうちの一人です。古い書物(『蒔絵師伝〈まきえしでん〉・塗師伝〈ぬしでん〉』)によると、京都の人で、蒔絵の名人であったといわれています。当時、最も華(はな)やかな蒔絵で江戸時代の人々を喜ばせた尾形光琳(おがたこうりん、1658-1716)の作風(琳派〈りんぱ〉)にひかれたといいます。しかし友治の時代には光琳はすでに歿(ぼっ)していました。が、友治はその作品を研究して、その良いところを自分の作品にとり入れたと書かれています。また、光琳を慕(した)うあまり、自分の作品に「青々子」という、自分は光琳の弟子であるという銘(めい)まで入れているのです。
この槇(まき)と鹿を意匠(いしょう)した料紙箱(りょうしばこ)と硯箱(すずりばこ)の底にもこの「青々子」の銘があります。永田友治の作品にはこのような料紙箱や硯箱だけではなく、重箱(じゅうばこ)や盃(さかずき)などの食器にも華やかな蒔絵が施されたものが多くあります。そして、この蒔絵師は「青々子、永田友治」とかならず自分の作品にサインを記しているのです。よほど自分の作品に自信があったのでしょう。
しかし、この永田友治という蒔絵師、さきほど書いたように、そのくわしい姿はわからないのです。彼が活躍(かつやく)した時期さえ正徳(しょうとく)から享保(きょうほう)の頃(1711-1736)の人としか知られていません。
最初に「君たちは蒔絵師という職業を知っているだろうか」などとえらそうな事を書きましたが、実は江戸時代の蒔絵師のことも、あまりくわしくは知られていないのです。
しかし、この友治が慕い、自身も製作した“琳派”の蒔絵は江戸時代の日本人に愛されただけでなく、幕末(ばくまつ)から明治(めいじ)にかけてはヨーロッパで開催された各地の万国博覧会(ばんこくはくらんかい)に出品され、ものすごい人気があったのです。
蒔絵に螺鈿(らでん=貝片〈かいへん〉を切って磨〈みが〉いたもの)、鉛板(なまりいた)などを貼(は)って豪華(ごうか)な装飾を施した“琳派蒔絵”は欧米(おうべい)の人々にも国境(こっきょう)を越え、東西文化のへだたりをも越えて愛されたのです。
ただ、この永田友治という京都に住した蒔絵師、晩年江戸に移り住んで蒔絵師をやめ、茶道(さどう)の宗匠(そうしょう)になったといい、80余歳まで長生きしたと書く書物(『東洋漆工史〈とうようしっこうし)』)もあります。いずれにしろ、たかだか二百数十年前の江戸の蒔絵師についてもまだまだ不明な点が多いのです。しかし、今後の蒔絵の研究がこれらの霧の内の蒔絵師たちを陽(ひ)の光の下に立たせるであろうことを期待しています。