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清朝工芸の魅力(しんちょうこうげいのみりょく)
工芸室 降矢哲男
2018年12月18日
清王朝(清朝)は、日本では江戸時代の初めにあたる天命元年(てんめいがんねん)(1616)、中国・満州において、前身である金(後金)が建国され、崇徳元年(すうとくがんねん)(1636)には清に国号が改められました。その後、順治元年(じゅんちがんねん)(1644)に明王朝が滅ぶと、北京へと遷都を行い、1912年まで中国やモンゴルを支配する最後の統一王朝となっています。特に、康煕帝(こうきてい)(在位期間:1661~1722)、雍正帝(ようせいてい)(在位期間:1722~35)、乾隆帝(けんりゅうてい)(在位期間:1735~95)の三人の皇帝の時代には、国内での農業、商業の発展によって経済が活発化し、国力が増強されて、対外貿易についても頻繁に行われるようになりました。文化的にも同様に大きな動きを見せることになりました。
清朝の工芸についても技術的に高度な発展を遂げています。なかでも陶磁器については、官窯(かんよう)とよばれる王朝直属の陶磁窯(とうじよう)において、優れた作品が数多く生み出されています。清朝の官窯は、前代の明王朝の制度を継続しており、陶磁器生産の中心は明王朝と同じく江西省(こうせいしょう)の景徳鎮(けいとくちん)に置かれ、そこで宮廷向けの陶磁器がつくられています。そこでは、高度な技巧を凝らした磁器が生み出される一方で、名声高い陶磁器の模倣も行われています。「大清乾隆年製(だいしんけんりゅうねんせい)」(乾隆年間[1736~1795])の銘がある豆青釉蒜頭瓶(とうせいゆうさんとうへい)(図1)もそうした模倣されたものの一つであります。この瓶は、宋時代の官窯青磁を模倣したもので、白磁(はくじ)の磁胎(じたい)を活かしながら、火を被って赤褐色となる畳付けの胎土(たいど)の部分を忠実に写して作られています。同じく宋時代に作られた米色青磁(べいしょくせいじ)にみられるような貫入(かんにゅう)に至るまで、忠実に写された作品もこの時期に作られています。こうした青磁をはじめとして、黒色、褐色、藍色、黄色など、一つの色調の釉薬(ゆうやく)を掛けて作るものを単色釉磁(たんしょくゆうじ)とも呼び、清朝陶磁を代表する作品となっています。
粉彩松鹿図瓶(ふんさいしょうろくずへい)(図2)は、粉彩という、18世紀はじめにヨーロッパで流行していた無線七宝(むせんしっぽう)の技法を応用した技法を用いて、色彩豊かで、絵具の濃淡を活かした精細な描写で文様を描いています。山間の松林の間で鹿が動いたり、休んだりする様子が遠近法を用いて風景画のごとく描かれ、そして、川を渡っている鹿が起こす水波の動きに至るまで、繊細な筆致で活き活きとした様子が表されるなど、見るものを虜にしてくれます。粉彩の技法は、ヨーロッパで発達した七宝の技術と色ガラスを顔料にする技術が合わさって、発展していく過程で生み出されたものです。粉彩は、美しい白磁の素地を活かして、色ガラスの粉末に鉛粉を混ぜて顔料を作っていくこともあって、絵付けの段階で仕上がりの色調が把握できることが大きな特徴となっています。そのため、絵画と同様に絵付けを施すことが可能となり、官窯において宮廷画家なども動員がなされ、陶磁器に絵付けが行われるようになります。粉彩の技法を施したもののうち、宮廷の内務府造弁局(ないむふぞうべんきょく)の琺瑯作(ほうろうつくり)で絵付けされ、ガラス顔料で上絵銘(うわえめい)を記したものを「琺瑯彩(ほうろうさい)」、景徳鎮窯(けいとくちんよう)で全ての工程を仕上げ、青花銘を記したものを「粉彩」と呼び分けています。
清朝においては、ガラス工芸も飛躍的に発展をしています。「乾隆年製」の銘のある鮮やかな黄色を呈した黄玻璃細頸瓶(きはりほそくびへい)(図3)は、長い円柱状の首と林檎を思わせるかのような球形の胴部が特徴的であります。清朝では、宮廷においてガラス工房が設けられ、特に乾隆帝の時代に最盛期を迎えます。中国では古来より、玉を珍重してきており、ガラスも玉の色調や重量感などに近づけようとしています。そのため、本作のように一見してガラスの感じが見られない質感も一つの特徴となっています。
清朝では、このほかに文人趣味などを反映した画題を装飾性豊かに描く青花磁器や、「康煕五彩(こうきごさい)」と呼ばれて珍重された多様な色彩で繊細な筆致の絵画的な絵付けを行ったものなど、多くの技術を凝らした華やかな工芸品が作られた時代であったといえます。