工芸室 尾野
2001年08月11日
14世紀、元(げん)時代の中国(ちゅうごく)で、焼きものの表面(ひょうめん)にかけられた釉薬(うわぐすり)の下に、コバルトを用(もち)いて青い模様(もよう)を描(えが)く方法が確立(かくりつ)されます。この染付(そめつけ)と呼ばれる手法を用いた焼きものは、量産(りょうさん)されるようになった15・16世紀以降、中国国内にとどまらず、朝鮮半島や日本へもかなりの量が輸出(ゆしゅつ)され、大変人気(にんき)を博(はく)しました。
それだけ人気のあるものですから、朝鮮(ちょうせん)の国王(こくおう)やその側近(そっきん)の人たちが、輸入(ゆにゅう)に頼(たよ)るだけではなく、何とか自分の国でも作れないかと考えたのは、ある意味で自然な発想(はっそう)だったと言えるかもしれません。『朝鮮王朝実録(ちょうせんおうちょうじつろく)』という朝鮮時代(李朝(りちょう))の歴史(れきし)を記録(きろく)した書物(しょもつ)には、15世紀に朝鮮国内で染付磁器(じき)(染付で模様(もよう)の描かれた硬(かた)い焼きもの)を作ろうとして努力(どりょく)していたことが克明(こくめい)に記(しる)されており、実際(じっさい)に韓国の京畿道広州(けいきどうこうしゅう)にある15世紀の窯跡(かまあと)からは、手本(てほん)にされたと見られる中国製の染付と、焼(や)き損(そん)じて歪(ゆが)んでしまった朝鮮製(せい)の染付の破片(はへん)がみつかっています。
しかし、染付を作るのに欠(か)かせない原料(げんりょう)のコバルトは、その頃の朝鮮国内では採取(さいしゅ)されていないものであったため、僅(わず)かな輸入品に頼らなければならないのが実情(じつじょう)でした。しかも、当時コバルトはかなり高価(こうか)で、それほどたくさん手に入るものではなかったようです。そのため、17世紀まで朝鮮半島での染付磁器の量産(りょうさん)は行われることなく、「染付磁器はぜいたく品だから王宮(おうきゅう)以外では使ってはいけない」として使用が禁止(きんし)されることまであったのでした。
ところが、18世紀に入ると、徐々(じょじょ)にコバルトがまとまった量輸入されるようになり、だんだんと染付が量産されるようになっていきます。それでも初期には、まだコバルトの輸入量がそれほど多くなかったためか、器全面(うつわぜんめん)に染付で模様が描かれることはほとんどありませんでした。
また、コバルトが貴重品(きちょうひん)であったため、薄(うす)めて使っていたらしく、染付の青の発色(はっしょく)は全体にくすんでいて、あまり色鮮(いろあざ)やかではありません。
これに対して、19世紀の染付は青の色あいがかなり鮮やかです。また、コバルトの輸入量が増加(ぞうか)したらしく、ふんだんに使われるようになり、器のほぼ全体をコバルトで青く染め上げた瑠璃地(るりじ)と呼ばれるものまで出現(しゅつげん)します。瑠璃地は、一見(いっけん)すると青い釉薬がかけられた焼きもののようにも見えますが、実際には器のほぼ全面を染付で青く染め上げているだけで、釉薬自体(じたい)は透明(とうめい)です(瑠璃地のものをよく見ると、青い色にずいぶんムラがあることが分(わ)かりますが、これは釉薬の下に塗(ぬ)ったコバルトの塗りムラです)。
瑠璃地釉面取六角長頸瓶 <京都国立博物館蔵>
瑠璃地陰刻網目文面取六角長頸瓶 <京都国立博物館蔵>
さて、こう書いてくると、18世紀の朝鮮の染付はいかにもケチで、貧乏臭(びんぼうくさ)い貧相(ひんそう)なもののような印象(いんしょう)を持(も)たれるかもしれません。しかし、実物(じつぶつ)を見てみると、そうだとばかりも言えないようです。むしろ、大きな余白(よはく)を残(のこ)しつつ、簡素(かんそ)な模様を効果的(こうかてき)に配置(はいち)しているところなど、「余白の美(び)」とも言うべきセンスの良さが感じられますし、コバルトの鈍(にぶ)い発色も派手(はで)さはありませんが、味(あじ)わいのある渋(しぶ)い色だと思いませんか?
作り手にとっては単に原料をケチった結(けっか)だったのかもしれませんが、それがまた違(ちが)った面(めん)での良(よ)さとなっているのは面白(おもしろ)いものです。
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