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No.118

「贋作」が受容されるとき

京都国立博物館主任研究員

福士 雄也

京都国立博物館だより190号掲載の「よみもの」として、筆者は「時を超える想い―「作品」が伝えるもの―」と題する一文を草した。寺院所蔵の文化財調査の過程で出会った伝尾形光琳筆の画巻が、疑いようのない贋作でありながらもなお、それを享受した江戸時代の人々の真摯な想いを伝える側面を有することを紹介し、美術史学における価値判断はあくまで相対的なものに過ぎないと自戒したのだった。

ところで、この作品を寺院に寄進した施主として名前の挙がる佐々木甚三郎について、2018年にある研究者の方から問い合わせを頂いた。それは、大谷篤蔵・藤田真一校注『蕪村書簡集』に収録される、安永5年(1776)9月4日付の書簡宛先である季遊と関係はあるのかというものだった。

筆者は迂闊にも気付いていなかったが、手元の『書簡集』を繰ってみると、季遊についての注に以下の記述がある。「京都の俳人。後寄笻と改号。冠芳斎閑空とも号す。嘯山門。佐々木有則。通称甚三郎。屋号桔梗屋。代々阿波侯の御用達」。桔梗屋の主人は代々甚三郎を名乗ったようだが、件の寄進者名として、佐々木甚三郎の名に続き「父 閑空」とあり、「源有則印」(白文方印)が捺されているので間違いない。施主の一人は、与謝蕪村に奥の細道図巻を発注した人物だったのである。

桔梗屋は、承応年間(1652~55)頃に初代甚三郎が茜を用いて紅梅色に染める方法を発案し、甚三紅(じんざもみ)として売り出して莫大な利を得た豪商である。この初代甚三郎は女敵として斬殺されるという悲劇的な最期を迎えた人物だが(『狛平治日記』)、井原西鶴『日本永代蔵』にモデルとして登場するほか、これに着想を得た恋川春町挿図の黄表紙『甚三紅絹由来』も出版されるなど、知られた分限者であった。甚三郎が北野社に寄進した灯籠は、現在も北野天満宮楼門前に見ることができる。

その桔梗屋の主人をつとめるかたわら、三宅嘯山に俳諧を学んだ季遊こと佐々木有則が蕪村に制作を依頼した奥の細道図巻は、長らく江戸時代後期の模本が知られるのみであったところ、2022年に発見され、当館の特集展示において初公開された。作品との出会いというのは結局偶然によるところが大きいが、有則があの伝光琳作品を寄進した人物だったというのは、個人的には非常に感慨深いものがあり、作品が媒介する縁のようなものを感じた次第である。かたや重文級の新発見作、かたや日の目を見ない贋作という対照的な扱いを受けるふたつの作品は、江戸時代中期の京都において、文字通り同じ地平で享受されていたのだった。

しかし、伝光琳筆の画巻がこれまで誰の目にも留まらなかったかというと、どうやらそうではないらしい。前稿執筆時には把握していなかったことだが、三村竹清は、京都某家に谷口香嶠による光琳画巻の模本が所蔵されていたことを報告している(「随縁聞記」)。この香嶠模本に写されている寄進銘によって、原本が件の伝光琳画巻であることは明らかである。香嶠は、明治21年(1888)に実施された臨時全国宝物取調局の文化財調査に乗じ、「京都の寺院のものは、大抵見せてもらひました」(黒田譲『名家歴訪録 中編』)と語っているから、おそらくこの頃に模写の機会を得たのだろう。明治24年に『光琳画譜』を上梓した香嶠にとって、琳派研究上の意義は小さくなかったはずだ。その意味では、あの伝光琳作品が美術史上に果たした役割も、皆無ではないと言えるのかもしれない。

[No.218 京都国立博物館だより4・5・6月号(2023年4月1日発行)より]

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