本文へ

当館ウェブサイトでは、ウェブサイトの利便性向上のためにCookie(クッキー)を使用しています。Cookieの利用にご同意いただける場合は「同意する」ボタンを押してください。「拒否する」を選択された場合、必須Cookie以外は利用いたしません。必須Cookie等、詳細はサイトポリシー

  1. TOP
  2. 学ぶ・楽しむ
  3. おうちで学ぶ・楽しむ
  4. よみものweb
  5. 再会、乱世のスーパードクター

No.119

再会、乱世のスーパードクター

京都国立博物館保存修理指導室長兼美術室長

羽田 聡

現在、個人的に興味をもって足跡を追っている人物、通称を「道三」という。道三といっても、「美濃のマムシ」とよばれる戦国大名の斎藤利政(道三、?~1556)ではなく、ほぼ同時期に名医として活躍した曲直瀬正盛(まなせしょうせい)(道三、号は翠竹斎(すいちくさい)、1507~94)である。筆者がはじめて道三のことを知ったのは、28年ちかく前になる。

大学院での古文書演習の授業で、鬼籍に入(い)られて久しい指導教官がたくさんのコピーを抱えて教室に入ってきた。数人のゼミ生に配布を終えると、プリントは能登(現在の石川県)の守護をつとめた畠山義綱(?~1593)から道三に宛てた書状であり、のちに道三は裏面を用いて医道書『小乗覚自養録』を著した、との説明をうけた。曲直瀬家に伝わった史料群を学校が所蔵しているため、先生はこれらを教材に、少しでも実物に近い雰囲気で授業をおこない、総合的な理解を促すよう考えたのだろう。とはいえ、大半が治療や調剤の方法など、道三から義綱への医道伝授に関わる内容で、狭小な視野しか持ちあわせていなかった当時、あまり面白味を感じず、彼の名前は長らく胸の内にしまい込んでいた。

それが一転して、道三の事績に関心をしめしたのは昨年の夏、ちょうど特別展「京に生きる文化 茶の湯」の準備に忙しかった時期である。図録の概論を執筆する段になり、何をテーマにしようか迷ったさい、中国絵画担当のMさんと雑談におよび、中国から日本にもたらされた文物、すなわち「唐物(からもの)」の伝来にふれようと思いたつ。文字数が限られていたので、あれもこれもという訳にも行かず、結局、「秋景冬景山水図」(国宝、金地院蔵)を取り上げることにした。各季節の空気感を見事にとらえた同作は、徽宗皇帝(1082~1135)の画といわれ、足利将軍家─大内家─妙智院─金地院と伝わった超名品である。その来歴を記す附属品の一つに、曲直瀬道三が妙智院の策彦周良(さくげんしゅうりょう)(1501~79)へしたためた書状があった。

思いがけない再会に、どことなく不思議な感覚を抱きつつ中身をひもとくと、驚きを禁じ得なかった。なにしろ、かつての演習で記憶している道三のすがた、医師の顔はどこにもない。周良のもつ「山水図」と、越後の上杉謙信(1530~78)のもとで実見した類似品とを比較し、前者の質の高さ、由緒の正しさを褒めちぎっており、もはや鑑定家そのものである。先行研究をもとに調べると、道三は高度な医術の心得があるほか、美術や茶の湯にも造詣が深く、こうした知識をもとにして、謙信以外に織田信長や明智光秀、毛利元就・輝元たちと親交があった。たとえば僧侶や山伏のように、比較的自由に各地を往来できる人々は権力者にとって貴重な情報源となった時代、道三も同様の役割を担ったとみてよく、今では、歴史の表舞台に出ることはないものの、戦国の世におけるキーパーソンとさえ考えている。

道三にたいするモチベーションがここまで変わったのは、博物館に職を得て22年、日々、専門分野の異なる研究員と接し刺激をうける、いわば人との「出会い」が大きい。しかし、道三との数奇な巡り合わせ、「縁」は、先を見越すような亡き恩師のチョイスがあればこそで、遅きに失した感は否めないが、心から学恩に感謝している。

[No.219 京都国立博物館だより7・8・9月号(2023年7月1日発行)より]

タイトルとURLをコピーしました

SNSでシェアする
X
facebook
LINE