美術室 中村
1998年08月08日
桃山(ももやま)時代の1596年閨(うるう)7月に起きた大地震により、近世(きんせい)都市として繁栄(はんえい)する堺(さかい)や秀吉(ひでよし)の伏見城(ふしみじょう)で、数百人が死亡したと伝えられています。京都も、北野神社本殿(きたのじんじゃほんでん)、東寺金堂(とうじこんどう)が倒壊(とうかい)し、この東山(ひがしやま)の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)では、鎌倉(かまくら)時代に造られた二十八部衆像(にじゅうはちぶしゅうぞう)が被災(ひさい)しています。地震当時、博物館の新館裏手には、高さ60メートルの木造建築が、聳(そび)え立っていました。秀吉が10年にわたって造営(ぞうえい)してきた大仏殿(だいぶつでん)です。その建築は無事であったようですが、本尊(ほんぞん)の木造大仏(もくぞうだいぶつ)は、完成を目前にして大破(たいは)し、取(と)り壊(こわ)される結果となりました。
被災からの復興を願って、年号が慶長(けいちょう)と改められました。以来、1615年に豊臣家(とよとみけ)が滅亡するまで続く慶長の19年間は、京都に活気が漲(みなぎ)り、豊かな輝(かがや)きをもつ作品が多様な分野にわたって創造(そうぞう)されることになります。
舟木本(ふなきぼん)と呼ばれる洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ:重要文化財・東京国立博物館蔵)は、京都全体を南から俯瞰(ふかん)する構図(こうず)の中に、実は慶長年間に起きた様々(さまざま)な出来事(できごと)を描(か)き込んでいるのです。当時なら誰でも、いつであったか、すぐに思い浮かぶことばかりなのでしょう。いろいろな役回(やくまわ)りの人々を登場(とうじょう)させ、躍動(やくどう)する姿態(したい)を中心に構成した表現。それは臨場感(りんじょうかん)にあふれ、芝居(しばい)の一場面を観(み)るようです。その右隻(うせき)には、人々が水遊びをする鴨川(かもがわ)の右手に拡(ひろ)がる東山に、大仏殿の一郭(いっかく)が最も近く、つまり最も大きく描かれています。
現在と同じ三十三間堂が、右端(はし)の手前に見出(みいだ)せるでしょう。南北に長い建物ですから、南西から見下(みお)ろす視点(してん)をとることになります。西の縁側(えんがわ)で通し矢(とおしや)に興(きょう)じる男たちが見えます。東側には、今と違って団子(だんご)を焼く茶店もあって、こちらの方が賑(にぎ)わっています。
三十三間堂の北、大仏殿南側の築地(ついじ)との間には、大きな梵鐘(ぼんしょう)が下がる鐘楼(しょうろう)があります。博物館庭園中央の池の辺(あた)りでしょうか。1614年(慶長19)の造立(ぞうりゅう)です。1598年(慶長3)8月に秀吉が死去(しきょ)した後、地震で失った木造大仏に代わる銅造(どうぞう)大仏の制作が始められたのですが、大仏鋳造(ちゅうぞう)中の出火(しゅっか)によって秀吉創建(そうけん)の大仏殿が1602年(慶長7)に焼失(しょうしつ)し、大仏殿の建築自体の再建(さいけん)が1610年(慶長15)から行われることになりました。このように長く続いた慶長の大仏殿造営に、梵鐘は有終(ゆうしゅう)の美(び)を飾(かざ)るものであったのです。しかし、その銘文(めいぶん)に対して家康(いえやす)が異議(いぎ)を唱(とな)えて落慶供養(らっけくよう)は中止となり、まもなく豊臣(とよとみ)・徳川(とくがわ)の対立から大阪冬の陣(ふゆのじん)の合戦(かっせん)が開始されます。この事態(じたい)を、画家は、鐘(かね)を突(つ)く棒を強調することによって表現しているのかもしれません。
大仏殿を囲む築地の外側には、駕篭(かご)や旅の荷物を置いて休む者、馬を引く者など、お供(とも)の人々が待機(たいき)するさまが描かれています。境内(けいだい)には、身(み)なりの良い武士(ぶし)や高貴(こうき)な女性の他、遊女(ゆうじょ)、南蛮人(なんばんじん)、普段着(ふだんぎ)の職人(しょくにん)や旅支度(たびじたく)の農民(のうみん)の姿もあり、二人三人と仲間同士で大仏殿の周囲や開放された扉の内側に群(むら)がり、皆(みな)が一応に、高い屋根の裏側を見上げています。視線の先には、軒裏(のきうら)や上層(じょうそう)の複雑に重(かさ)なる構造材(こうぞうざい)の描写(びょうしゃ)があり、どうやら最新の建築工法(こうほう)に関心が集中しているようです。見物(けんぶつ)を終えてか、重箱(じゅうばこ)を囲(かこ)んで酒を飲(の)むグループはあっても、銅造の大仏を礼拝(らいはい)する姿は見あたりません。
四百年前の人々を熱狂させた慶長大仏殿の建築、その柱に用いられた鉄の輪(わ)が、博物館の庭園南側、三十三間堂の向かいに展示されています(西の庭)。この鉄輪と書いて「かなわ」と呼ばれる部材によって、何本かの材木を束(たば)ねて太い柱とすることが可能となりました。この鉄輪の技法は、百年後の1709年に再建された奈良東大寺(ならとうだいじ)の大仏殿にも使用され、その大建築を今も支えているのです。
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