- TOP
- 学ぶ・楽しむ
- おうちで学ぶ・楽しむ
- 博物館ディクショナリー
- 金工
- 美しき七宝(しっぽう)
美しき七宝(しっぽう)
工芸室 末兼俊彦
2020年03月03日
様々な技法(ぎほう)や素材(そざい)を用いる金属(きんぞく)工芸の中で、古くて新しい存在(そんざい)が七宝です。七宝とは、金属で作られた器の表面に、陶磁器(とうじき)の仕上げに用いられる釉薬(ゆうやく)と同様のものを塗(ぬ)り、高温で焼成(しょうせい)してガラス質(しつ)の被膜(ひまく)を作る技法とその技法によって作られた作品のことです。基礎(きそ)となる素材に金属を用いる分、陶磁器より頑丈(がんじょう)で薄(うす)く、繊細(せんさい)な造形(ぞうけい)を作りやすい点が七宝の特徴(とくちょう)と言えるでしょう。「七宝」の名前は、釉薬の成分を変えることで様々な発色を示すさまを『無量寿経(むりょうじゅきょう)』や『法華経(ほけきょう)』に語られる仏(ほとけ)の国を飾(かざ)る七つの宝(金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)ないし金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠(しんじゅ)、玫瑰(まいかい))に見立ててつけられたとされています。その名のとおり、七宝は多種多様な色の組み合わせで彩(いろど)られる色彩(しきさい)豊(ゆた)かな工芸品なのです。
古代の七宝
日本における七宝そのものの発生は比較的(ひかくてき)早く、現存(げんぞん)する作例としては飛鳥(あすか)時代の牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)より出土した「七宝亀甲形座金具(しっぽうきっこうがたざかなぐ)」や、奈良(なら)時代の正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいのじゅうにりょうきょう)」を挙げることができます。また、厳密(げんみつ)な意味での七宝ではありませんが、藤ノ木古墳(ふじのきこふん)から出土した「金銅装鞍金具・後輪(こんどうそうくらかなぐ・しずわ)」の取手には、熱せられてまだ柔(やわ)らかい状態(じょうたい)のガラスを粘土(ねんど)のようにこねて押付(おしつ)けた装飾(そうしょく)が施(ほどこ)されています。釉薬と近しい成分であるガラス製品(せいひん)も古代から生産されているため、当時の人々にとっても比較的なじみ深いものだったのかもしれませんね。しかしながら、それ以降(いこう)、直接的(ちょくせつてき)な継続(けいぞく)関係にある作品はほとんど生まれず、日本における七宝の製作はここで一旦(いったん)途絶(とだ)えてしまったと考えられています。
近世の七宝
日本製の七宝が再度(さいど)出現(しゅつげん)するのは室町(むろまち)時代末から桃山(ももやま)時代初頭(しょとう)にかけてです。それまでの間、日本国内での製作こそ行われてはいませんが、七宝そのものが日本社会で忘(わす)れ去られていたわけではありません。特に室町時代においては中国文化や中国からの舶載品(はくさいひん)を珍重(ちんちょう)した足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)の意向もあって、中国製の水墨画(すいぼくが)や陶磁器と共に七宝の存在も伝えられていたと思われます。桃山時代を過(す)ぎると、中国大陸や朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から再度もたらされた七宝技法をもとに、日本国内での七宝製作が盛(さか)んになり、その流れは明治に至(いた)るまで続きました。
図1の「七宝唐花文手付盆(しっぽうからはなもんてつきぼん)」は、アーチ状の取手と花先形の脚(あし)をもうけた銅製(どうせい)の盆(ぼん)に有線七宝(ゆうせんしっぽう)を施した作品で、この種の七宝作品の中では最も早い時期に製作されたとみなされています。有線七宝とは、単純(たんじゅん)に釉薬を器胎(きたい)の表面に塗るだけではなく、細い金属線で境界(きょうかい)を作り、成分の異(こと)なる釉薬が混ざらないように配慮(はいりょ)して、色の住み分けを行ったものです。七宝は陶磁器との影響(えいきょう)関係が多く、この有線七宝の技法も中国の粉彩磁器(ふんさいじき)の一つ掐絲琺瑯(こうしほうろう)を意識(いしき)して開発されたものと思われます。地に有線七宝による繊細な唐草を巡らせ(図2)、その合間に円形の空間を設(もう)けて図様を表す構成(こうせい)は、粉彩磁器の中でも多数の色を使用し、塗り埋め方式で装飾する十錦手(じっきんで)との関係を指摘(してき)されることも多く、これこそ金工の職人(しょくにん)と陶磁器の職人がお互(たが)いに分野を超えた刺激(しげき)を与えあっていた証拠ではないでしょうか。
見込(みこ)みを斜(なな)めに二分割(にぶんかつ)する片身替(かたみがわり)の構成は、本来、室町時代から桃山時代に隆盛(りゅうせい)を見せたものですが、その斬新(ざんしん)なデザインセンスは何度もリバイバルされ、江戸時代の小袖(こそで)にも用いられるなど、復古的(ふっこてき)な意味合を持つ図様です。それに加え、変形の菊桐紋(きくきりもん)を各所に散らすなど、その意匠(いしょう)と図様構成に明らかな日本的感性(かんせい)が見られますが、最も大きく描かれた如意頭形八弁唐花文(にょいとうがたはちべんからはなもん)や捻十弁唐花文(ねじりじゅうべんからはなもん)に中国的な要素(ようそ)の混入(こんにゅう)を認めることができます(図3)。江戸時代の七宝には、中世以前からの日本的意匠や図様に七宝で補彩的(ほさいてき)な彩色を施したものと、器形や文様構成そのものを中国的なものの模倣(もほう)とする二系統(けいとう)が存在しますが、この盆は日本的な感性のもと、中国由来の意匠を巧みに取り込んだ両者の折衷(せっちゅう)作品と言えるものなのです。金工的な要素と陶磁器的な要素、日本的な要素と中国的な要素、中世的な要素と近世的な要素、様々な影響をまとめ上げたところが見る人を惹(ひ)きつける七宝の魅力(みりょく)なのです。