考古室 森郁夫
1994年08月13日
お墓には皆さんがたのご先祖や身内の人たちの、火葬されたお骨が納められています。亡くなった人を火葬するという風習は、日本では飛鳥(あすか)時代の終わり頃に行われるようになりました。記録では7世紀最後の年、西暦700年に道昭(どうしょう)というお坊さんが亡くなった時に、今の奈良県桜井市粟原(ならけんさくらいしおおばら)(または奈良県高市郡明日香村栗原(たかいちぐんあすかむらくりはら))の地で火葬されたのが最初とされています。
写真の壷は、三彩(さんさい)の壷です。この壷は、そのような火葬された人の骨を納めるために作られたもので、「三彩釉骨蔵器(さんさいゆうこつぞうき)」と呼んでいます。
「三彩釉」というのは、中国から伝えられた焼き方で、緑・黄・白三色の釉(うわぐすり)をかけた焼物のことです。このような釉をかけた焼物は、奈良時代にたくさん作られました。奈良正倉院(しょうそういん)には壷・皿・碗など、いくつも保存されています。 写真の三彩の壷は和歌山県伊都郡高野口町(わかやまけんいとぐんこうやぐちちょう)から出土したもので、全体が赤っぽく見えます。これは、粘土に鉄分が多く含まれているためで、普通はもっと白い粘土が使われます。この壷はぐうぜん発見されたために、お墓のようすはわかりません。でも、写真
に見えるように、壷は石製の入れ物に入っていました。滑石(かっせき)という軟らかい石二つを球形にくりぬいて、壷をいれ、ぴったりと合わせていました。このような入れ物もめったに見られません。壷が三彩であること、それを石の入れ物に納めたことなどからしますと、お墓もていねいに造られたのではないでしょうか。
壷の中には名前を記したものが入っていませんでしたので、どのような人のお骨を納めたのかわかりません。でも、この壷が奈良時代前半頃に作られたということと、三彩柚の壷としては、今まで見つけられているものの中では一番大きなものだというところから考えてみますと、その人は奈良時代のはじめ頃に、この地方に住んでいた有力者だったのではないでしょうか。それとも奈良の都、平城宮(へいじょうきゅう)に勤めていた役人のひとりで、この地方の出身だったので、高野口町にお墓が造られたのかもしれません。
奈良時代頃には、そのようなことがよくありました。たとえば威奈大村(いなのおおむら)という人は、今の新潟県(にいがたけん)、越後国(えちごのくに)の国府(こくふ)の長官(ちょうかん)として都から派遣されていましたが、病気のために42歳という若さで亡くなってしまいました。その地で火葬にされ、お骨は金銅製(こんどうせい)の立派な骨蔵器に納められ、故郷の大和山君里(やまとやまきみのさと)、今の奈良県香芝市穴虫(かしばしあなむし)に造られたお墓に葬られました。大和から越後までずいぶん遠いですね。病の床にいた時、威奈大村さんはどんなに心細かったことでしょう。
また、大阪出身の高屋枚人(たかやのひらひと)という人は今の茨城県(いばらぎけん)、常陸国(ひたちのくに)の国府の役人として派遣されましたが、やはり任地で亡くなっています。そして彼の故郷、今の大阪府南河内郡太子町(おおさかふみなみかわちぐんたいしちょう)に葬られました。しかし、この人が何歳でなくなったのか、わかっていません。
この他にも、昔お骨を納めたいろいろな壷があります。素焼のものもあります。緑色をした緑釉(りょくゆう)の壷もあります。さきほど述べた威奈大村さんのものもあります。それは球形で金色に光っているものです。
ふたには大村さんのことが記されています。「威奈」「大村」の名を見つけてください。写真の壷には、今はお骨は入っていませんが、昔の人をしのびながらご覧ください。
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