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花背別所経塚の遺物(はなせべっしょきょうづかのいぶつ)
考古室 宮川禎一
1997年06月14日
みなさんは京都市(きょうとし)の北山(きたやま)にある「鞍馬寺(くらまでら)」というお寺にお参りしたことがありますか?かなり山の上の寺院ですよね。これから説明する花背別所経塚(はなせべっしょきょうづか)のある場所はこの鞍馬寺の門前からさらに山道をのぼり花背峠を越えた北側、標高(ひょうこう)700m付近の尾根筋(おねすじ)にあたります。ここに経塚がつくられたのは平安(へいあん)時代のおわり、12世紀中頃のことでした。
「経塚」というのは仏教の教典(きょうてん)を書き写した「経巻(きょうかん)」を青銅(せいどう)の筒に納め壺や石室内に納入(のうにゅう)して小規模な塚を築いたものです。平安時代の後半から鎌倉(かまくら)時代にかけて日本全国で盛んにつくられました。ではなせお経を埋めたのでしょうか?それは釈迦(しゃか)が亡くなってのちだんだんと仏教の教えがすたれていくのだという「末法思想(まっぽうしそう)」と深いかかわりがあります。その末法の始まりは当時の日本では平安時代中頃の永承(えいしょう)七年、西暦1052年であると計算されていました。そのために貴族(きぞく)や僧侶(そうりょ)たちは筆写(ひっしゃ)したお経を地中に埋めて保存しようとしたのです。その保存期間はなんと56億7千万年という気の遠くなるようなながさです。仏の教えが忘れさられ、混乱した世を救うべく弥勒仏(みろくぶつ)が現れるとされるはるか未来に向けてのことでした。でもこのように博物館で展示されているということはその時を待たずに発見されてしまったということですよね。
花背別所経塚の遺物は大正(たいしょう)時代から昭和(しょうわ)のはじめ頃にかけて植林(しょくりん)作業中に偶然(ぐうぜん)掘り出されたもので、1箇所ではなく複数の経塚(1~7号)からの出土品です。遺物の出土状況については考古学者によって聞きとりがおこなわれ、ある程度の様子がわかっています。写真1の経筒(きょうづつ)が出土した1号経塚について少しくわしく見てみましょう(第1図)。
経塚は山塊(さんかい)から東にのびる尾根の頂部に築かれていました。直径が約5mほどの積石塚(つみいしづか)で、その中心部内部に小石室がありました。石室の内側からは銅製の経筒(写真1)とそれを納めた焼物の外容器、金銅製の毘沙門天(びしゃもんてん)小像とそれを納めた銅製筒形厨子(ずし)(写真2)、銅製の香炉(こうろ)・花瓶(けびょう)・お皿(六器)などが出土し、石積みのなかからは日本製の鏡や短刀、中国宋(そう)時代の青白磁合子(せいはくじごうす)などが発見されています。毘沙門天小像は京都北方の守護神(しゅごしん)とされるもので、小さいながら優れた造形品です。
経筒は高さ37cm、屋根形の蓋(ふた)をもつ堂々とした形で、表面に次のような文字が刻まれています。「正六位佐伯正親 女弟子□太子 仁平三年三月□□」(□印は読めない部分)。これは仁平(にんぺい)三年(西暦1153年)に下級貴族であった佐伯(さえき)氏と尼僧(にそう)によって埋納(まいのう)された経筒であることを示しています。ほかの2号以下の経塚もほぼこの頃、12世紀なかごろに営まれたもので、尾根上に点々と築かれていきました。経筒の中に保管されていた経巻の多くは800年のあいだに朽ちてしまっていましたが、かろうじて法華経(ほけきょう)であることがわかった例もあります(3号経塚)。
花背別所1号経塚がつくられた仁平三年という年は日本史年表によると平忠盛(たいらのただもり)が亡くなり息子の清盛(きよもり)が平氏(へいし)の総帥(そうすい)となった年にあたります。京都の治安(ちあん)が悪化し殺傷(さっしょう)事件が多かったという記事もみられます。「武者(むしゃ)の世(よ)」のはじまりとされる保元(ほげん)・平治(へいじ)の乱も間近にせまっていました。貴族から武士へと時代の主役が移リ行く変換点(へんかんてん)にあたる時代でした。貴族達が経塚というかたちで永遠を期したのも、このような不安な時代背景があったからだとおもわれます。