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銅鐸とその時代(どうたくとそのじだい)
考古室 難波洋三
1997年10月11日
弥生(やよい)時代は、日本列島へ水稲耕作(すいとうこうさく)が伝わり、狩猟(しゅりょう)や採集(さいしゅう)を基盤(きばん)とする社会が農耕(のうこう)を基盤とする社会へと変化した時代で、紀元前3世紀頃から紀元後3世紀頃、すなわち中国の、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の時代頃から、前漢(ぜんかん)・後漢(ごかん)、そして諸葛孔明(しょかつこうめい)や関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)らの英雄が活躍した三国(さんごく)時代までに、ほぼあたります。
「弥生(やよい)」ということばの持つ柔和(にゅうわ)な響き、稲作から連想される田園的な情景、あるいは優美な弥生土器などによって、弥生時代は平和でのどかな時代というイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。しかし実際には、弥生時代は、農耕に不可欠な土地や水資源を巡っての抗争や余剰生産物の掠奪(りゃくだつ)などが、集団間で始まる時代なのです。武器が刺さった遺体や木の楯(たて)などが遺跡から発掘されており、これらは弥生時代が一面で戦いの時代であったことを雄弁に物語っています。
それまでは基本的に平等であった集団の構成員の中に、支配する者と支配される者の区別があらわれるのも、この時代からです。当時の日本人について記した中国の歴史書である『魏志(ぎし)』の倭人伝(わじんでん)には、「大人(だいじん)」が道を通る時には「下戸(げこ)」は道脇に避け、ひれ伏し両手を地面について彼らのことばを聞き返答した、とあります。また、この時代の墓やその副葬品(ふくそうひん)の構成などからも、今の市や郡ぐらいの単位であったクニが、王を頂点に、王の一族、上層民、下層民、といった階層社会を形成していたと考えられます。
それでは、このような社会で銅鐸(どうたく)はなにに使われたのでしょうか。
これには、いろいろの説があります。日時計であった、金を精練した、さらには入浴用の湯沸しである、ユダヤの秘法に関係する……といった、珍説奇説も多くありますが、現在最も有力なのは、農耕祭祀(さいし)の祭器(さいき)として使われた、という説です。
流水紋銅鐸の拡大図をご覧になりたい方はここをクリックしてください。
米に生きた日本人にとって、最も重要な祭祀は、稲作の祭でした。『魏志』倭人伝にこのような祭の情景の記載は、残念ながらありませんが、朝鮮(ちょうせん)半島についての記載の部分には、5月の種まきの終わった後と10月の収穫の後に、人々が鬼神(きしん)を祭って昼夜休まずに歌い踊り酒をのむとあります。このような祭で銅鐸は使われたのでしょう。また、銅鐸には、絵画を鋳出(いだ)した例がありますが、その重要なモチーフに、米を保管する高床式(たかゆかしき)の倉庫や米搗(こめつ)きの情景といった農耕に関するものがあり、絵画に鋳出された動物の多くも稲作に関係すると考えられています。たとえば、弥生人が最も多く食べた動物はイノシシであるにもかかわらず、銅鐸の絵画にはシカが最も多く登場します。奈良(なら)時代に編集された『播磨國風土記(はりまのくにふどき)』には、シカの血に種を播(ま)くことにより稲がはやく発芽するという呪術(じゅじゅつ)的な儀礼(ぎれい)が記されており、シカの生命力が稲の成育を助けるという信仰があったことがわかります。
このように、農耕祭祀にシカが重要な役割を果したのは、シカの角が毎年春に生え、夏秋と育ち、冬にはとれて落ちてしまうことを、植物の再生・成育・死と関係づけていたためと考えられます。そういえば、話題となったアニメ『もののけ姫』でも、生と死を司どる森の神は、たくさんの角が生えた人面のシカでした。
また、銅鐸は、当時の集落から離れた、山の斜面のような所から特別な施設も作らずにそれだけ埋めた状態で出土することがほとんどですが、これに関して、使用しない間、大地の生命力が宿るように銅鐸を土の中に埋めて保管していたと推定する研究者もいます。 このように、銅鐸の祭祀についてはまだまだ不明な点が多いのですが、これが解明されれば、今の日本の根幹を形づくった弥生時代の社会のありさまが、より明確になるはずです。